心霊スポットの松井田城跡と城代の大道寺政繁について【群馬の旅】

心霊スポットとして有名な場所の歴史を振り返ると残酷な事件や無慈悲な自然災害が起こった可能性が非常に高いです。もちろん特に理由がなくそのように扱われてしまう不憫な場所もありますが、結構な確率で心霊スポットでは人が亡くなっています。ここ松井田城跡もかつて激しい争いが繰り広げられ多くの人々が死んでいきました。

それでは現在の松井田城跡の様子、そしてその詳細について見ていくことにしましょう。

 

松井田城跡へのアクセス

高崎方面から国道18号線(松井田バイパス)を走らせ松井田の信号まで向かいます。その後少し進んだ右側に松井田城跡の看板がありますので右折。くねくねした登り坂を進み左側を注意していると松井田城跡案内板がありますので左折します。

上まで登りきると小さい駐車場があるのでそこから徒歩で進みます。

住所は群馬県安中市松井田町高梨子1192−5です。

 

松井田城について

松井田城松井田城は碓氷川と九十九川に挟まれた標高250~400mの尾根に築かれた大規模な山城です。

築城は1560年ぐらいといわれているが詳細はわからない。松井田城の前身となる城があったという情報もあるが本当のところどうなのかは不詳。わかっているのは甲斐武田氏と後北条氏の間に挟まれて右往左往していた安中氏がこの辺りを治めていたということだけです。

安中氏は甲斐武田氏に攻められこの辺りはよく戦場になっていたようです。

 

松井田城跡このような看板が多く建てられているが今一どれのことを指しているのか私にはわかりませんでした。

 

松井田城跡私が訪れたときは草が生い茂り殆ど整備されていない状況でした。

 

松井田城本丸にあった虚空蔵菩薩。

細かい経緯は他のサイトにお任せするとして、ここが心霊スポットとして扱われる原因についてお話しましょう。

 

松井田城紆余曲折があった後に1582年、後北条氏の大道寺政繁が松井田城の城代になります。政繁はいずれ訪れる戦いのために城の改修を進め堅城を作り上げました。

1590年。豊臣秀吉が後北条氏を倒すべく大軍を率いて本城がある小田原へ進みます。いわゆる小田原征伐です。松井田城も例外なくターゲットになり別働隊の北国勢(前田利家や上杉景勝)、信州勢(真田昌幸とその息子たち)に攻め立てられます。

 

松井田城豊臣別働隊は約35000人。対する松井田城籠城兵は約2000人だったと伝わっています。

結果は目に見えていますね…。

松井田城攻防戦は同年の3月28日~4月20日まで行われ最後は大道寺政繁が降伏する形で終わりました。10倍以上の兵に攻められ約1ヵ月も耐えたのは称賛に価すると思います。攻め手も百戦錬磨の強者ばかりなのにね。

 

松井田城死に物狂いで戦い降伏した大道寺政繁は豊臣軍の道案内をさせられ、更に前線で味方(後北条氏)と戦う羽目になります。

これはもの凄い侮辱ですね…。秀吉のことが憎くてたまらなかったでしょう。まぁ、それが嫌で自刃する武将が大勢いるわけですが、政繁は生きる道を選びました。

そして7月5日に小田原開城。これにより後北条氏は降伏し滅亡、豊臣氏の天下統一がなります。

 

終わりに

さて、大道寺政繁はその後どうなったのでしょうか?

なんと責任を問われ切腹…。重臣だったため仕方ないのかもしれませんがあまりにひどい…。

主家を裏切ったという自責の念に苛まれ自ら死のうと思ったでしょう。でも生き延びることが出来るかもしれないという希望もあったでしょう。切腹を申し付けられたとき政繁は何を思ったのか?

無念の一言でしょう。あまりに悔しい死だったに違いありません。もし霊が存在していて仏教でいう成仏があるなら彼は成仏できずに何処かを彷徨って松井田城に現れてもおかしくないですね。

子孫を逃がし生き残させることに成功したのが唯一の救いか…。

彼だけでなく安中氏時代の戦、そして松井田城の戦いで多くの命が無情にも失われていきました。この一帯は無念の感が蠢く悲劇の土地だったのです。

と言ったものの

いちち
霊なんて信じていませんし死後の世界なんて糞くらえだ!
と私は思っています。

では、何故心霊スポットになんて行ってブログを書いているか。お化けなんて出ようが出まいがどうでもいいのですよ。面白いのはその裏にある歴史。それに興味があるだけなんです。

おしまい!

松井田城

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