岐阜城の歴史と美濃のマムシこと斎藤道三の国盗りについて【岐阜の旅】

岐阜城稲葉山城(岐阜城)を拠点にした斎藤道三の一代国盗りはあまりに有名ですね!でも最近の研究では親子二代で国を乗っ取った説が有力になっているようです。ですので斎藤道三の前半生は父の庄五郎の後半生と入り混じっていてかなりややこしいことになっています。

今回は岐阜城の歴史と斎藤道三の国盗りについて書いていきます。少し長くなりますがお付き合いください。

それでは参りましょう!

 

岐阜城へのアクセスと情報

東海北陸自動車道岐阜各務原I.Cから国道21号線を西進、国道156号線を北進、岩戸トンネル出口を左折、鵜飼い大橋手前を左折、金華山トンネルを出た付近に岐阜公園駐車場(1回300円)。徒歩3分の岐阜公園内から金華山ロープウェー3分、金華山ロープウェー山頂駅から徒歩8分。

岐阜市HP 岐阜城へはどのようにいけばよいですか?より

JR岐阜駅からバスも出ています。岐阜公園・歴史博物館前のバス停で下りれば金華山の麓まで行けます。そこからはロープウェーを利用しましょう。徒歩で岐阜城まで登れないこともないですが登山です。

 

営業時間&料金

・3月16日から5月11日は午前9時30分~午後5時30分
・5月12日から10月16日は午前8時30分~午後5時30分
・10月17日から3月15日は午前9時30分~午後4時30分

・大人:200円 子供:100円 

 

稲葉山の砦と二階堂氏

岐阜城1200年位に軍事的目的で工藤行政がここに砦を建てたのが始まりといわれています。

工藤行政は鎌倉時代の人物で源頼朝に仕えました。二階堂で有名だった鎌倉永福寺の近くに屋敷を構えたことから後に二階堂を名乗るようになります。行政は鎌倉幕府で政所令、別当を務めました。鎌倉幕府に於いての政所は政務や財務を行う重要なポスト。

残念ながらこの頃のことはあまり史料が残っていないようで情報が少ないです。行政の数代後の二階堂行藤が亡くなってから、この城は廃城状態だったようです。

肖像画の人物は行政の子孫『二階堂行藤』です。

 

守護代の斎藤氏

斉藤妙椿1400年前半、美濃国(岐阜南部)は美濃守護の土岐氏が治めていました。現在でも岐阜県には土岐市や瑞浪市土岐町など土岐氏に由来する地名が残っています。廃城になっていた稲葉山城を修繕したのは守護代の斎藤利永といわれています。※守護代は守護を補佐する役職のこと。

斎藤利永が亡くなると、その弟の斎藤妙椿が後を継ぎます。

斉藤妙椿は1411年生まれで幼少期に出家し僧侶になります。1460年に兄が亡くなり、僧侶をやめて表舞台に出てきたわけですが、

・応仁の乱で活躍
・土岐家よりも高い官位を授かる
・歌人でもある
・経済力もあった

といった感じのデキる人だったようです。

斉藤妙椿が1480年に亡くなると斎藤利永の息子である斎藤利藤が美濃国守護代に。その後は後継者問題で身内揉めが起き混乱状態に陥ります。ここでマムシ男が登場します。

肖像画は斎藤妙椿です。

 

美濃の蝮こと斎藤道三と父、庄五郎について

斉藤道三像道三の父である松波庄五郎は京都で僧侶をしていました。法弟の日運が美濃国(岐阜県)の寺で住職になるということで付いていきます。このとき庄五郎は僧侶やめて油問屋の娘と結婚し油売りを始めます。

大道芸のような奇抜な売り方をし美濃国で一躍有名になると推薦があったのか、武士の道を志すようになったそうです。器用な庄五郎は武芸を難無く習得してみせ日運の親戚である長井長弘を紹介してもらい仕えることになりました。

一生懸命働き長弘に認められ断絶していた長井家臣『西村氏』の名を授かり西村勘九郎正利と名乗ります。

瞬く間に美濃国中に庄五郎の良い評判が広がり美濃守護大名家の土岐頼芸から声がかかります。ひたすらに主君のために働き頼芸から信頼を得るまでに至ります。

土岐頼芸には土岐頼武という兄がいて二人の間で美濃守護後継者争いが起こります。土岐頼芸(小守護・長井長弘、庄五郎)vs土岐頼武(守護代・斎藤利良)の形勢。 何度かの戦の末、1527年に土岐頼芸が勝利し美濃守護になります。長井長弘も斎藤氏に代わって美濃国の実権を握ります。この戦いで庄五郎は暗躍し勝利に貢献したといわれています。

 

国盗り!斎藤道三について

岐阜城この辺りから斎藤道三が出てきます。

この後起こることは庄五郎、道三どちらがやったのか今一わかりません。恐らく共謀だと思うのですが…。ここでは道三が謀ったということにしておきます。

道三も庄五郎譲りの器用さを持っていたようで土岐頼芸から重用されます。更に上を目指すにあたって邪魔な存在、かつての主君・長井長弘を頼芸と仲違いさせ誅殺してしまいます。1533年頃に長井長弘が殺害され同時期に庄五郎が病死しました。まさか道三…。さすがにそれはないよね?

 

岐阜城この後、再び土岐家の内乱が勃発します。

守護・土岐頼芸vs土岐頼純(前守護・土岐頼武の弟) 越前の朝倉家と近江の六角家が頼純側に付き美濃全域を巻き込む大きな戦いになりました。 また長良川の氾濫が相まって土岐家の勢力はガタ落ちします。

この頃、権力無き守護代だった斎藤利良が亡くなると斎藤利茂が守護代になります。斎藤利良は上記の斎藤妙椿の系列(持是院家)。斎藤利茂は斎藤利永の流れ(美濃守護家)。ここで道三は持是院家が断絶してしまうということで土岐頼芸の許可を得て斎藤新九郎利政を名乗ります。

いちち
これは完全に守護代の地位を狙っていますね!

 

岐阜城道三は考えます。

道三:『守護代か。いや待てよ…。この弱体し切った土岐家を見てみよ。いっそのこと美濃国全部を乗っ取れないだろうか?うむ…。土岐家でやっかいな奴といえば…。頼満様か…。(土岐頼芸の弟)』

1541年、なんと道三は頼満を毒殺します。これにより土岐頼芸と道三は険悪になり戦いが始まります。

押され気味な時期もありましたが、 翌年の1542年、道三は土岐頼芸の居城を襲い勝利。 土岐頼芸を尾張に追放し美濃国主になりました。 これが有名な『国盗り』です。

勿論、土岐家は黙っていません。かつては守護争いで戦いあった土岐頼芸と土岐頼純が手を組み道三に挑みます。しかも尾張の織田信秀(信長父)と越前の朝倉氏を味方に付けて。名将揃いの織田、朝倉氏に城を落とされたり、どさくさに紛れて土岐頼芸が美濃守護に返り咲いたりと苦しい状況が続きますが、重要な戦いではしっかり勝利しました。

朝倉氏とは土岐頼芸が守護職を退任するという条件で和睦。 織田氏とは加納口の戦いの道三の大勝利によって和睦。 この時、娘の帰蝶を織田信長に嫁がせた。という感じで今度こそ美濃を平定しました。

 

道三の晩年

岐阜城1554年に剃髪。仏門に下り道三と名乗り隠居。ここで大人しくしていれば長生きできたのに…。

引退後、息子の斎藤義龍に家督を譲ったのですが、次第に無能扱いし始め他の息子たちに愛情を注ぎます。仕舞には義龍を廃嫡(相続権を失わせる)させようとします。キレた義龍は弟達を殺害し『道三討つべし!』と挙兵します。

様々な所から恨みを買っていた道三の下には人が集まらず長良川の戦いにて戦死。道三を助けるために織田信長も出兵しましたが間に合いませんでした。享年62。

斎藤道三については以上です。凄まじい人生を送っていますね!

これより下はその後の岐阜城についてです。

 

斎藤道三、亡き後

岐阜城斎藤道三にスポットが当たりすぎているせいで義龍はあまり話題になりません。しかし、長良川の戦い(道三vs義龍)では道三を凌駕する兵数を集め圧倒。見事な采配をする義龍を見て道三は『間違っていた。あいつはデキる男だった。』的なことをいったという逸話が残っています。

道三を討った後、荒れていた美濃国を持ち直します。内政もしっかりしていたそうです。 度々攻めてくる織田信長の侵入も許しません。軍事センスもgood!!!だがしかし…。35歳という若さで亡くなってしまいます。

歴史の「~たら、~れば。」はナンセンスとよく言われますが敢えて言います。斎藤義龍がもう少し生きていれば歴史が変わっていたでしょう。なんせ信長が足止め喰らうわけですから。

肖像画は斎藤義龍です。

 

竹中半兵衛斎藤義龍の息子、斎藤龍興の代で道三流斎藤氏は滅びます。道三の代から続く家臣の離反、織田と浅井の同盟、信長の執拗な攻めなどにより遂に稲葉山城は落城してしまいます。

斎藤龍興のエピソードで有名なのは稲葉山城乗っ取り事件ですかね。竹中重治(半兵衛)と安藤守就がたった16人の部下と共に稲葉山城を奪取してしまったというお話。主君を戒めるために行った行為だったので結局返上したわけですが、まぁ、これでは残念大名としか評価されません。

ちなみに龍興はしばらく生き延びるのですが、事あるごとに信長に反抗。最終的に越前の朝倉氏の客将として信長と闘い戦死したといわれています。

肖像画は竹中半兵衛です。

 

稲葉山城から岐阜城へ

岐阜城信長公記という比較的信憑性の高い史料に次のように述べられています。

八月十五日、色々降参侯て飛騨川のつゞきにて侯間、舟にて川内長島へ、龍興退散。さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。

歴史データ館 信長公記・巻首 稲葉山御取り侯事より引用

内容は龍興が降参して長島へ船で逃亡し信長が美濃国を治めることになりました。尾張国小牧山城から美濃国の稲葉山城へ移動。そして井口と呼ばれていた稲葉山を岐阜と名付けた。

岐阜城命名は政秀寺古記に登場する沢彦宗恩(たくげんそうおん)の逸話が有名です。 

信長「和尚!ここ井口を改名しようと思うんだけど、何か案あります?」
宗恩「いろいろ考えてみたのですが。岐山、岐陽、岐阜とかどうですか?」
信長「ほぅ。岐阜はなかなかのセンスだと思う。その心は?」
宗恩「中国故事に倣いました。岐山を拠点にして周国が殷国を滅ぼしたことからです。」
信長「阜は?」
宗恩「阜は小高い丘の意味があります。」
信長「じゃあそれにしよう!」 

この話はかなり有名ですが後世の創作である可能性があります。信じるか信じないかは貴方次第です!

 

その後の岐阜城

岐阜城1576年に信長は息子の信忠に家督を譲り信忠が岐阜城主となります。信長自身は1579年に完成した滋賀県の安土城に移り住んでいます。 

1582年、明智光秀による本能寺の変で信長と信忠が死亡。(信忠は二条城にて)
この間に色々と起こりましたが割愛。(清州会議など)

1583年、豊臣秀吉に味方した池田恒興に美濃国13万石を拝領。大垣城主に。池田恒興は幼少期から織田家に仕えた超重臣です。

肖像画は明智光秀です。

 

岐阜城池田恒興が美濃国を拝領された際、息子の元助に岐阜城が与えられました。しかし翌年の1584年に起きた豊臣秀吉vs織田信雄、徳川家康の小牧・長久手の戦いにて恒興、元助共に討ち死にしてしまいます。

肖像画は池田元助です。

 

岐阜城父と兄が戦死したあと弟の輝政が岐阜城に入城します。

その後、池田輝政が転封になり豊臣秀吉の甥、秀勝が入城します。しかし秀勝は若くして亡くなり織田信忠の息子である織田信秀が入城。そして1600年の関ヶ原の戦いで織田信秀は西軍(石田三成側)につきます。関ヶ原の戦いでは岐阜城で籠城戦を試みるが、城を知り尽くしている池田輝政に攻められ落城。織田信秀自身は生かされ1605年迄生きます。

池田輝政は徳川家康に味方し明治時代の廃藩置県まで池田氏(岡山藩)を存続させます。その後も池田氏は続いているようです。詳しくは知りませんが。

肖像画は池田輝政です。

 

岐阜城の最期

岐阜城1601年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は岐阜城を廃城にします。岐阜城の遺構は徳川重臣の奥平信昌によって近隣の加納城に移されました。

これにて終了です。

 

終わりに

岐阜城記事に起こす前から斎藤道三のことは何となく知っていましたが、しっかり調べてみて

いちち
恐ろしい人だなぁ…。戦国時代だから止む終えないのか。

と戦慄しました。

自分が戦国時代の武将だったらどんな感じなのか?とかたまに想像しますが、多分ヘタレなんだろうなぁ…。

おしまい!

岐阜城

2 件のコメント

  • 何となくは知ってるけど詳しくは知らない歴史、いつも興味深く拝見しております。
    にしても、ブログにそこまでの情報量を書くとは、情報の裏取りや確認に相当な手間が掛かると思われ、ただただ感服します。
    私も見習わなくてはです、、
    今後も楽しみにしております。

    • もぎさん

      コメントありがとうございます!
      私はもぎさんのHPやブログの形式に憧れます。なんか旅の風景がしっかり表現されていると思うんですよね。
      私のブログは若干google先生を意識して書いてしまっているので旅行記っぽくないような気がするんですよね…。

      またもぎさんのブログに遊び行きます!

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