増上寺の徳川将軍家墓所に行ってきた!【東京の旅】

ここは港区芝公園!

平成27年4月2日から拝観できるようになった徳川将軍家墓所は増上寺の片隅にひっそりと佇んでいます。いつまで観れるかはわかりません。拝観時間は10:00~16:00で拝観料は大人500円。(高校生以下は無料)中にはガイドさんがいて時間制で案内してくれるみたいです。

 

徳川将軍家墓所の内部

2015-10-25 14.23.40合祀塔(ごうしとう)。

 

静寛院宮 皇女 和宮

2015-10-25 14.24.06徳川十四代将軍家茂正室の皇女和宮の墓。静寛院宮(せいかんいんのみや)は家茂死後に名乗った名前です。生まれは1846年、死没は1877年。第120代天皇、仁孝天皇(にんこうてんのう)の第八皇女です。 
6歳の時に有栖川宮家の熾仁新王と婚約しました。14歳になり輿入れという段階で朝廷と幕府の政治の渦(公武合体)に巻き込まれます。突然政略結婚をさせられることになり和宮は拒絶しましたが様々圧力がかかり徳川家茂と政略結婚させられることになります。
和宮が行かないのであれば、孝明天皇(和宮の兄)の生まれたばかりの娘を徳川家に降嫁させるというのが決め手になったみたいです。今までの暮らしとは全く違うものでかなり苦労したようです。天璋院(篤姫)などとも最初はうまくいきませんでした。
和宮が悲運の皇女といわれる理由はこれだけではありません。なんと降嫁してすぐに徳川家茂が亡くなってしまいます。家茂は側室をもたず和宮の心を開く努力をし、お互いかなりの信頼関係を築いていました。和宮は自分の居場所、そして最愛の人を得ましたが4年間の短い2人の生活はあっけなく終わってしまいます。 
御存じのとおり徳川幕府は次の十五代将軍、徳川慶喜で終焉を迎えます。大政奉還が行われる前に和宮は朝廷から「帰ってきなさい」といった内容の手紙をもらいます。しかし和宮は徳川に残ることに決めます。なんでそう決めたのかは知りません! 
1868年に幕府軍と薩長軍が鳥羽伏見の戦いで衝突します。和宮は朝廷に徳川家を取り潰さないでと手紙を送るが相手にされません。薩長軍は容赦なくガンガン攻めてきます。しかし逃げることなく手紙を送り続けます。そして一度江戸にかなり近くなったところで薩長軍は進軍を止めました。皮肉にも敵方の総司令官はかつての婚約者、有栖川宮家の熾仁新王です。 
そのころ天璋院(篤姫)も薩長軍総大将の西郷隆盛に手紙を出しそれらの働きから西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸の町、江戸城は守られました。これが有名な江戸無血開城です。 
その後、明治10年に32歳の若さで和宮は亡くなりました。 

 

徳川十四代将軍 徳川家茂

2015-10-25 14.24.51二代将軍徳川家茂(いえもち)の墓です。和宮の旦那です。1846年生まれ、1866年没。20歳の若さで亡くなっています。大の甘党。ほとんどの歯が虫歯でやられていたそうです。
そしてかなりいい人。もっと長生きしていれば(もしくは時代が違えば)立派な将軍になれたかもしれない。 激動の時代を生きた将軍。

 

徳川六代将軍 徳川家宣

2015-10-25 14.25.06六代将軍徳川家宣(いえのぶ)の墓です。 三代将軍徳川家光の孫。1662年生まれ、1712年没。 正直いって何をした人か知りません。将軍在職は3年間。宝永通宝、酒税の廃止。そして前将軍綱吉が残した生類憐みの令を徐々に廃止していきました。 新井白石を雇った人。

 

徳川二代将軍 徳川秀忠 正室 お江の方

2015-10-25 14.25.48二代将軍徳川秀忠(秀忠)と正室のお江の方の墓です。徳川家康の三男。1579年生まれ、1632年没。この人は有名ですね! 長野上田城の真田昌幸、幸村親子にてこずって関ヶ原の戦いに遅刻して家康にめっちゃ怒られた人。家康が生きている間は家康の意に沿って仕事をしましたが家康死後は自らの意志で政治を行いました。 
あまり評価が高くない武将&将軍でしたが家康が二代目に選んだということは何か意味があったのでしょう。優秀な人間だけで世界は周っていないのです。
お江の方は浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の娘です。姉に淀殿(豊臣秀頼の母)、初(京極高次の正室)がいます。みんな繋がってます。

 

徳川七代将軍 徳川家継

2015-10-25 14.26.08七代将軍徳川家継の墓です。六代将軍徳川家宣の四男。1709年生まれ、1716年没。七歳に満たず亡くなっています。政治は父親の重臣であった新井白石、間部詮房(まなべあきふさ)によって行われました。次の八代将軍は暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗です。

 

徳川九代将軍 徳川家重

2015-10-25 14.26.34九代将軍徳川家重の墓です。八代将軍徳川吉宗の長男。1712年生まれ、1761年没。虚弱体質であり、また脳の障害により言語不明瞭であったといわれています。吉宗は継がせるかどうか悩みましたが、家重の長男の徳川家治(十代将軍)が優秀だったため後々のことを考えた吉宗によって選ばれました。 
実は女性だったのでは?という説もあります。墓から出された頭蓋骨、骨盤が女性の形に近かった。歴代将軍はあぐらの状態で遺骸が収められていたが家重だけは正座だった。(女性埋葬)言語不明瞭で側近の一人しか家重の言葉を聞き取れず、将軍の声を聞いたものが少なかった。女性だったから表に出せなかったのでは? 徳川ミステリーですね。

 

徳川十二代将軍 徳川家慶

2015-10-25 14.26.49十二代将軍徳川家慶の墓です。十一代将軍徳川家斉の次男。1793年生まれ、1853年没。ペリーが黒船で浦賀湾沖に現れた年に亡くなっています。人事才能はあったようです。あと生姜が大好きです。

 

2015-10-25 14.26.59いつまで開いているかわからないの興味がある方はいったほうがいいですよ。

おしまい!

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