斎藤道三亡き後の岐阜城と名の由来について【岐阜の旅】

ここは岐阜市金華山天守閣!

岐阜城からの展望岐阜城から眺める長良川上流方面。

さて、平成28年度の初旅記事がこれにて終結致します。 旅の内容が濃いだけにブログもそれに付随してもっさりと重くなってしまいました。初旅の記事を書ききるのに一月一杯使うとは思いもしませんでした。 この記事もそれなりのボリュームになってしまうと思いますが、どうぞお付き合い宜しくお願い致します!

では本題に参ります。
前記事を読んでいただいた方が解りやすいかもしれません。
岐阜の旅 【美濃の蝮 斎藤道三 編】

 

斎藤道三、亡き後

斎藤義龍斎藤義龍像。 
斎藤道三にスポットが当たりすぎているせいで義龍はあまり話題になりません。しかし、長良川の戦い(道三vs義龍)では道三を凌駕する兵数を集め圧倒。見事な采配をする義龍を見て道三は「間違っていた。あいつはデキる男だ。」的なことを言ったという逸話が残っています。

道三を討った後、荒れていた美濃国を持ち直します。内政もしっかりしていたそうです。 度々攻めてくる織田信長の侵入も許しません。軍事センスもgood!!!だがしかし…。35歳という若さで亡くなってしまいます。

歴史の「~たら、~れば。」はナンセンスとよく言われますが敢えて言います。斎藤義龍がもう少し生きていれば歴史が変わっていたでしょう。なんせ信長が足止め喰らうわけですから。 
斎藤義龍の息子、斎藤龍興の代で道三流斎藤家は滅びます。道三の代から続く家臣の離反、織田と浅井の同盟、信長の執拗な攻めなどにより遂に稲葉山城は落城してしまいます。

 

竹中半兵衛竹中半兵衛像。

斎藤龍興のエピソードで有名なのは稲葉山城乗っ取り事件ですかね。竹中重治(半兵衛)と安藤守就が16人の部下と共に稲葉山城を奪取したというもの。結局返上したわけですが、まぁこれでは残念大名としか評価されません。

ちなみに龍興は暫く生き延びるのですが、事あるごとに信長に反抗。最終的に越前の朝倉氏の客将として信長と闘い戦死したといわれています。

 

稲葉山城から岐阜城へ

京都南蛮礼拝堂の織田信長像信長公記という比較的信憑性の高い史料に次のように述べられています。

八月十五日、色々降参侯て飛騨川のつゞきにて侯間、舟にて川内長島へ、龍興退散。さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。
歴史データ館 信長公記・巻首 稲葉山御取り侯事より引用
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/mokuji.html

内容は龍興が降参して長島へ船で逃亡し信長が美濃国を治めることになりました。尾張国小牧山城から美濃国の稲葉山城へ移動。そして井口と呼ばれていた稲葉山を岐阜と名付けた。

岐阜城命名は政秀寺古記に登場する沢彦宗恩(たくげんそうおん)の逸話が有名です。 
信長「沢彦和尚!ここ井口を改名しようと思うんだけど、何か案あります?」
宗恩「いろいろ考えてみたのですが。岐山、岐陽、岐阜とかどうですか?」
信長「ほぅ。岐阜はなかなかのセンスだと思う。その心は?」
宗恩「中国故事に倣いました。岐山を拠点にして周国が殷国を滅ぼしたことからです。」
信長「阜は?」
宗恩「阜は小高い丘の意味があります。」
信長「じゃあそれにしよう!」 
この話はかなり有名ですが後世の創作である可能性があります。信じるか信じないかは貴方次第です!

 

その後の岐阜城

明智光秀像明智光秀像。

1576年に信長は息子の信忠に家督を譲り信忠が岐阜城主となります。信長自身は1579年に完成した滋賀県の安土城に移り住んでいます。 
1582年、明智光秀による本能寺の変で信長と信忠が死亡。(信忠は二条城にて)
この間に色々と起こりましたが割愛。(清州会議など)
1583年、豊臣秀吉に味方した池田恒興に美濃国13万石を拝領。大垣城主に。池田恒興は幼少期から織田家に仕えた超重臣です。

 

小牧・長久手の戦い

池田元助池田元助像。

池田恒興が美濃国を拝領された際、息子の元助に岐阜城が与えられました。しかし翌年の1584年に起きた豊臣秀吉vs織田信雄、徳川家康の小牧・長久手の戦いにて恒興、元助共に討ち死にしてしまいます。

 

池田輝政池田輝政像。 
父と兄が戦死したあと弟の輝政が岐阜城に入城します。姫路城を今の形にした人で戦国時代の歴史が好きな方はご存知でしょう。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、明治の廃藩置県まで池田家(岡山藩)を存続させます。その後も池田家は続きます。詳しくは知りませんが。

池田輝政が転封になると秀吉の甥、秀勝が入城します。しかし秀勝は若くして亡くなり織田信忠の息子である織田信秀が入城。そして1600年の関ヶ原の戦いで織田信秀は西軍(石田三成側)につきます。

関ヶ原の戦いでは岐阜城で籠城戦を試みるが、城を知り尽くしている池田輝政に攻められ落城。織田信秀自身は生かされ1605年迄生きます。

 

岐阜城の最期

岐阜城からの展望岐阜城から眺める大垣市、関ヶ原方面。
1601年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は岐阜城を廃城にします。岐阜城の遺構は徳川重臣の奥平信昌によって近隣の加納城に移されました。

これにて終了。あぁ。走行距離も長かったけどブログ作成時間も長かった…。

おしまい!

京都南蛮礼拝堂の織田信長像

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