泉岳寺に眠る赤穂義士たちについて【東京の旅】

ここは港区高輪!

去年の12月に訪れた泉岳寺の一角にある赤穂義士墓所。正直言って赤穂義士についての知識は殆どありませんでした。知っている情報は忠臣蔵、敵討ち、大石倉之助、吉良上野介の単語くらい。ということで今回は(いつもだけど)日本史の勉強がてらの更新です。

 

赤穂事件(忠臣蔵)

浅野内匠頭の墓浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の墓。

赤穂事件の発端は1701年。浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に斬りかかったことから始まります。毎年正月、幕府は朝廷にお年賀の挨拶するため使者を送っていました。そして3月くらいに朝廷が返礼として幕府に勅使を出す。この返礼を迎える祭事の最終日に事件は起こります。

二人の立場は天皇の使者を迎える高家代表(吉良上野介)とそれの補佐(浅野内匠頭)。※高家とは儀式、儀礼を司る役職です。

この事件で将軍徳川綱吉の怒りを買い浅野内匠頭は即日切腹を命じられます。浅野内匠頭が藩主を務めていた播磨赤穂浅野家は改易となりました。※播磨赤穂は現在の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町の周辺。

まとめ
浅野が吉良を斬りつける→浅野切腹→播磨赤穂浅野家改易

 

血染めの石血染の石と血染の梅。

吉良上野介が反撃のため抜刀していたら喧嘩両成敗で双方罰せられたはずでしたが完全無抵抗であったためお咎め無し。これに浅野家臣は激怒し「仇敵・吉良上野介討つべし」と暴走しそうになります。ところが筆頭家老の大石倉之助は「浅野家再興の可能性はまだある!」となだめます。

まとめ
播磨赤穂浅野家改易→吉良お咎め無し→浅野家臣「吉良討つべし!」→重臣大石は冷静

 

大石倉之助の墓大石倉之助の墓。

頼みの綱である浅野大学(浅野内匠頭の弟)が広島浅野宗家に永預され赤穂浅野家再興の可能性が無くなってしまいます。※永預は「ながあずけ」と読み、自家より身分が高い大名に拘禁されることです。ちなみに広島浅野宗家は豊臣秀吉政権「五奉行」の一人、浅野長政の次男「浅野長晟」が初代。赤穂浅野家は浅野長政の孫「浅野長直」が初代。

まとめ
浅野家存続不能→大石を中心に吉良討ち入りの徒を結成

 

首洗の井戸首洗の井戸。

完全に行き詰った大石倉之助達は悩みに悩んだ挙句、仇敵の吉良上野介邸に乗り込み討ち果たしました。参加人数は47人。(四十七士)1702年に吉良上野介を討ち取り、首を浅野内匠頭の墓前に供え幕府に自首。幕府から切腹の命を受けて全員切腹。という話です。

まとめ
吉良邸討ち入り→敵討ち成功→全員切腹に処される

 

大石良雄外十六人忠烈の跡

大石良雄外十六人忠烈の跡

 

大石良雄外十六人忠烈の跡ここは泉岳寺ではありません。肥後熊本藩細川家の屋敷で大石倉之助らが一時預けられた場所。上述の文章だけでは「どうしてこうなった?」と消化不良になりますね。問題は「何故、浅野は吉良に斬りかかったのか」です。

取り押さえられた時、浅野内匠頭はこんなことを言ったそうです。「最近、吉良さんを恨むことがあった。江戸城内、しかも大事な日だったけど、今しかないと思った。討ち果たせてくれ。」

幕府公式の常憲院殿御実紀という書物には「長い間、吉良さんは朝廷関係の仕事をしてきたのでそれに関して右に出るものはいません。というわけでみんな吉良さんに賄賂を贈ったりして媚び売っていました。しかし浅野さんは吉良さんの機嫌を窺うことなくマイペースで職に当ります。

吉良さんはそれが気に入らなく秘かに退けます。それによって浅野さんは時間に遅れたり、礼節を失うことになります。これを恨んで事を起こしてしまったのではないでしょうか?」みたいなことが書いてあります。

斬られて運ばれていく吉良上野介に恨みについて聞くと「恨み???わしゃ、知らん。」とのこと。※常憲院殿御実紀のこの部分は編纂時の巷説(噂話)といわれている。

また浅野内匠頭を取り押さえた梶川頼照の日記に「この時のことを思い出し、浅野さんの内心を察すると吉良さんを討ち果たせなかったのは無念であったでしょう。突然のことだったのでああするしかなかったのです。」※この日記は赤穂事件が世間に知られ「赤穂義士こそ武士の鏡」という風潮になってから書かれたものなので、取り押さえた梶川頼照が叩かれるのを回避するために止む無く書いた可能性もある。今で言う炎上回避!

これらのことを見るに、まぁ何かしらあったのでしょう。ただ…。殺す程の事だったのか?とは思いますが。※諸説あるのでなんとも言えませんが。

大石倉之助はとても複雑な心情だったと思います。本人は赤穂藩が改易になったことで京都に住みお家再興ため2年位奔走します。結果として討ち入りを果たしたわけですが、これは幕府に対する最後の訴えでしょう。

実際に幕府内でも厳罰派と恩情派で分かれたらしいです。助命の意見も出ていたそうですが、切腹になりました。ちなみに浅野大学は徳川綱吉が亡くなった時の大赦で許され旗本として復活しましたとさ。

終わりに

忠臣蔵…。 赤穂事件は本当のところどうだったの?という感じでよくわかっていません。故に歌舞伎や劇、テレビなどでは作者がうまい具合に肉付けしています。そして創作が定説になり広まっていく。 

歴史を勉強していくとぶつかる面白いところですね。「あれ?一般的な認識と全然ちがうじゃん」的な。例えば赤穂事件の一説に浅野内匠頭が狂って吉良上野介を斬ったという話もあります。これでは感動的な話を作れませんね!本当かどうかは知りませんが。

おしまい!

大石倉之助の墓

2 件のコメント

  • 赤穂事件の直後に、事件を題材にした、仮名手本忠臣蔵が大当たりして、
    それが、史実になっちゃったトコがありますよね。
    多分、登場人物が、断絶になったり、切腹になったりと語り継いだり、文書が残りにくかったりじゃなかったかも。

    いつも、よく調べられていますね。

    • 上総さん

      コメントありがとうございます。
      はい、事件の原因がはっきりとわからなかったので創作しやすかったみたいですね。
      調べるほどに深みに嵌っていきます。諸説ありすぎて…。まぁそれが楽しいのですが。

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