国宝指定2015年?!まだまだこれから千鳥・松江城【島根の旅】

ここは松江市殿町!

松江城、またの名を千鳥城。千鳥の由来は徳川家光が各大名に提出するように求めた正保城絵図にある松江城の様相から。江戸初期の松江城には幻の千鳥破風(屋根)が存在していたたため千鳥城と呼ばれていたそうです。

私は他の国宝4城とともに古くから国宝指定されていたと思っていたのですが、松江城が国宝に指定されたのは2015年(平成27年)とまだ最近の事。それでは松江城の様子と歴史を見てみることにしましょう。

 

松江城へのアクセス

松江城自動車で行くなら松江だんだん道路の西尾ICを降りて県道260号線を松江城方面へ直進すれば到着します。松江城ホームページを見ると駐車場は城近くの松江城大手前駐車場か城山西駐車場がおすすめのようです。私は松江城大手前駐車場がもの凄く混んでいたので近くのタイムズ畑殿町駐車場に駐車しました。料金はそれほど変わらないので込んでいるならタイムズに駐車した方が早いと思います。

電車はJR山陰本線の松江駅から『ぐるっと松江レイクラインバス』で国宝松江城(大手前)を下車。約10分程度で到着します。

 

 

松江城の歴史

松江城松江城は江戸時代初期(1611年)に堀尾氏が築城。それ以前は尼子氏や毛利氏の支配下にあり、ここには末次城という城が建っていました。末次城は鎌倉時代に佐々木(末次)胤清が築城したといわれています。末次城の詳細はよくわかっていませんが戦国時代中期に毛利氏の侵攻を受けて落城したと思われます。

 

松江城築城者の堀尾氏は1600年の関ヶ原の戦いで活躍し出雲松江24万石を与えられ月山富田城に入城します。かつては難攻不落の天空城と呼ばれていた月山富田城ですが、大砲などを使うようになった近代戦に不利、城下町を大きくしたいという理由で松江城を現在の位置に築城。

堀尾氏当主の堀尾忠氏は山内一豊に手柄を乗っ取られたという軍議『小山会議/評定』が有名ですね。徳川家康が打倒上杉氏のため軍を栃木県小山市まで進めたときに『石田三成が挙兵!』の報聞き開いた会議が小山会議/評定。『さて、どうしたものか?』と問うと山内一豊が『私の城を提供する!(家康さんに協力する!)』といいました。

一豊の心強いその一言で場の武将らが家康の味方になりましたという話なのですが、実は一豊と親交があった堀尾忠氏が前日(?)に『私は家康殿に城を渡して味方しようと思っている。』と彼に伝えたとされています。それを一豊はパクって手柄にした、なんてひどい話が残っています。

※二人でしっかり話し合って一豊が発言したのかもしれません。そもそも小山会議についての一次資料は残っていないので嘘かもしれません!

 

松江城ところが築城した堀江氏は嗣子がいなく1633年に断絶し改易になってしまいます。その後、京極忠高が入城するが京極氏も嗣子がなく1637年に一時断絶。そして信濃国松本藩から松平直政から入封してきます。以後、明治維新まで続くことになります。

 

松江城の内部

松江城松江城2Fの展示室。後藤又兵衛の鎧や槍が飾られていました。

 

松江城この軍扇は松平直政が14歳のとき大阪冬の陣で敵将・真田信繁(幸村)から勇猛ぶりを称えられて投げ与えられたものとされています。

 

松平直政松江城3Fは松江市の全容図。これは昭和34年。

 

松江城旧藩時代の松江市街の様子。

 

松江城松江城4Fは全国の天守写真。左から松本城、犬山城、彦根城、姫路城と続いています。国宝天守だけではなく重要文化財の現存天守や復元天守の写真も展示してあります。

 

松江城松江城5Fの様子。

 

松江城松江城から眺める宍道湖(しんじこ)。

 

松江城5Fにあった昔の見取り図。

 

松江城明治初年の松江城です。

以上!

 

終わりに

松江城明治期の『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)』通称『廃城令』が発布され天守を除く建造物は払い下げられ撤去されてしまいます。天守も売りに出ましたが保存を望む地元の元藩士や豪農によって買い取られ撤去を免れました。

島根県は松江城だけでなく出雲大社や石見銀山と世界的に見て重要な名所があります。大分からは少し遠いので何回も行けませんが時間を見つけてまた訪れてみようと思います。

国宝5城をまとめましたので時間がある方は見て行ってください!

日本の国宝5城を巡る歴史旅!ついに完遂。

おしまい!

松江城

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