国宝・富貴寺と六郷満山の歴史について【大分の旅】

大分県には国宝建造物が2棟あります。八幡総本宮の宇佐神宮、そして天台宗寺院の富貴寺。富貴寺を含め国東半島に点在する寺院を総称して『六郷満山』と呼び、それらは古来から山岳信仰、神道、仏教が入り混じった独特な宗教観を持ち現在に至っています。

それでは六郷満山と富貴寺の歴史を見ていくことにしましょう。

 

富貴寺へのアクセス

富貴寺は山奥にありますので自動車で向かうことになります。バスの乗り継ぎで行けないこともないようですが、遠方からいらっしゃる方は大分空港ないしJR宇佐駅近くでレンタカーを借りることをおすすめします。

大分空港からなら県道34号を直進して真中交差点を右折して直進。その他は国道10号線に出て下市北交差点を右or左折後直進がわかりやすいかと思います。もの凄くざっくり説明したもののカーナビ、なければスマホからグーグルマップで『富貴寺』を検索すればHITしますのでそれに従えばいいです。

 

六郷満山の起源

富貴寺冒頭でも説明しましたが六郷満山とは大分県国東半島およびその近隣地区に分布している天台宗寺院の総称です。『武蔵、来縄、国東、田染、安岐、伊美』の六郷と『本山(学問寺)、中山(修行寺)、末山(布教寺)』の三山を満山と呼んだことから命名されました。

その起源は『奈良時代に仁聞という僧が半島を巡り寺々を開基した。』と伝わりますが、これは伝説の域を出ないそうです。その頃の史料が残存しないのでよくわからないといったところでしょう。

 

富貴寺8世紀後半から9世紀にかけて宇佐宮の弥勒寺の僧侶らが一帯の寺院を整備し始め、また修行の場を求めて国東半島へ入り霊場を確立させていきました。同時期に六郷の一つ『来縄』で薬王寺が開基されたと遺跡調査でわかったことから六郷満山の起源はこの辺りの時代なのではないかといわれています。

11世紀から12世紀には中央の本格的な天台宗が九州に入り半島山間部が徐々に発展していきました。『六郷山年代記』という史料によると最終的に六郷満山は比叡山延暦寺に寄進されたとされています。

 

富貴寺の歴史

富貴寺富貴寺は寺というより阿弥陀仏を安置するお堂でした。この地区には蕗川が流れその谷近くに寺院があったことから古くは蕗寺や蕗寺・阿弥陀寺などと呼ばれていたそうです。いつ建立されたかの詳細は不明ですが、1147年銘の木造仮面が残っていることから富貴寺は平安時代中期~後期に建立されたのだと思われます。

 

富貴寺富貴寺は田染荘という荘園の中(糸永名)に建立された寺院なので当初は宇佐神宮の社家が支配していたのでしょう。しかし武家社会へ変遷していくなか1285年に曾根崎淡路法橋慶増という肥前国の(佐賀、長崎)御家人に糸永名は配されます。

ところが同時期に起きた元寇で武家のお財布はすっからかんに。ここで立ち上がったのが宇佐神宮関係者。田染は我々の土地だと取り戻しに動きます。『我々も戦争に参加した!異国調伏。ここは神の地。』といって訴え、認めさせてしまいます。その後、田染荘は宇佐氏が田染を名乗って支配しました。

※異国調伏は『神に願って敵を倒す/追い返す』的な意味だと思う。

 

富貴寺鎌倉時代に豊後国へ入ってきた相模国の大友能直が徐々に勢力拡大していくと田染荘はその流れに逆らえず大友氏の傘下に入ってしまいます。そして大友氏の流れを組む田原氏や吉弘氏が管轄するようになったそうです。

戦国時代後期にキリシタン大名・大友宗麟が豊後国内の寺社を信仰のために破壊しまくっていましたが富貴寺は難を逃れ現在に至っています。その後、大友氏が失脚すると豊臣秀吉の配下(誰かはわからない)が入り、江戸時代には幕領、最後は島原藩の飛び地領地と移り変わりました。

 

終わりに

かなりマニアックな歴史ですね。途中から六郷満山や富貴寺じゃなくて田染荘の話になってしまいましたがしょうがないね!今回は豊後高田市教育委員会『六郷満山寺院群詳細調査報告書』豊後高田市ホームページ・重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」保存計画[17-112]を参照にして執筆しました。

おしまい!

富貴寺

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