増上寺の徳川将軍家墓所の謎について調べてみた【東京の旅】

芝大門の増上寺境内には徳川将軍家墓所があります。増上寺は小田原征伐後に関東へ入封してきた徳川家康が菩提寺と定めた浄土宗の寺院です。菩提寺というからには徳川将軍全員が増上寺に眠っているのかと思いきや…。どういうわけか一部の将軍の墓しかありませんでした。

いちち
何故なのか?気になる…。

ということで今回は増上寺の歴史と歴代将軍全員の墓がない理由について見ていくことにしましょう。

 

増上寺へのアクセス

自動車ですと首都高の芝公園ランプ出口を右折、そして芝公園グランド前の信号を左折し左側を見ていると増上寺があります。下道から向かう場合は↓のマップを参照にどうぞ。最寄駅は都営三田線・芝公園駅か御成門駅です。

都会の道は複雑なのでgoogle mapの経路案内を利用しましょう。カーナビでもいいけど。

 

徳川将軍家墓所の情報

【受付時間】10:00~16:00

【拝観料】大人500円 高校生以下無料

【定休日】毎週火曜日(祝日は拝観可)

 

増上寺の歴史

増上寺増上寺は1393年(室町時代)に酉誉聖聰上人(ゆうよしょうそうしょうにん)によって創建された浄土宗の寺院です。

もともとは千代田区にあって名前も違う寺院でしたが、酉誉聖聰上人が真言宗から浄土宗に改宗し現在の名前に変えられたとされています。現在の場所に移設されたのは江戸時代に入ってからです。これは増上寺が徳川将軍家の菩提寺に選ばれたことが理由でしょう。

江戸時代には徳川将軍家の手厚い保護を受け浄土宗の学び場として常時3000人の僧侶が修学に励む寺院になりました。明治時代に入ると大火事が起き本堂が消失。そしてその他の建物も太平洋戦争の戦火で一部残し消失してしまいました。戦後、復興により次々と寺院が建設され今に至ります。

 

増上寺増上寺境内は広くゆったりとした時間が流れているため散歩に最適です。

いろいろと紹介したいですが、今回の題材は徳川将軍家墓所なので割愛!

 

増上寺の徳川将軍家墓所

まずは増上寺にある将軍の墓を見ていきます。

 

二代将軍・徳川秀忠と正室・お江の方の墓

増上寺徳川家康の三男。1579年生まれ、1632年没。

関ヶ原の戦いで信州上田城の真田昌幸、幸村親子にてこずって遅刻して家康に怒られた人。家康が生きている間は家康の意に沿って仕事をしましたが、家康死後は自らの意志で政治を行いました。 

お江の方は浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の娘です。姉に淀殿(豊臣秀頼の母)、初(京極高次の正室)がいます。みんな繋がってます。

 

六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の墓

増上寺三代将軍・徳川家光の孫。1662年生まれ、1712年没。 

正直いって何をした人か知りませんでした。将軍在職は3年間。宝永通宝、酒税の廃止。そして前将軍綱吉が残した生類憐みの令を徐々に廃止していきました。 新井白石を雇った人。

 

七代将軍・徳川家継の墓

増上寺六代将軍・徳川家宣の四男。1709年生まれ、1716年没。

七歳に満たず亡くなっています。政治は父親の重臣だった新井白石、間部詮房(まなべあきふさ)によって行われました。

 

九代将軍・徳川家重の墓

増上寺八代将軍・徳川吉宗の長男。1712年生まれ、1761年没。

虚弱体質であり、また脳の障害により言語不明瞭であったといわれています。吉宗は継がせるかどうか悩みましたが、家重の長男の徳川家治(十代将軍)が優秀だったため後々のことを考えた吉宗によって選ばれました。

実は女性だったのでは?という説もあります。墓から出された頭蓋骨、骨盤が女性の形に近かったらしい。歴代将軍はあぐらの状態で遺骸が収められていたが家重だけは正座だった(女性埋葬)。言語不明瞭で側近の一人しか家重の言葉を聞き取れず、将軍の声を聞いたものが少なかった。女性だったから表に出せなかったのでは? 徳川ミステリーですね。

 

十二代将軍徳川家慶の墓

増上寺十一代将軍・徳川家斉の次男。1793年生まれ、1853年没。

ペリーが黒船で浦賀湾沖に現れた年に亡くなっています。人事才能はあったようです。あと生姜が大好きです。

 

十四代将軍・徳川家茂(いえもち)の墓

増上寺1846年生まれ、1866年没。20歳の若さで亡くなっています。

大の甘党。ほとんどの歯が虫歯でやられていたそうです。そしてかなりいい人。もっと長生きしていれば(もしくは時代が違えば)立派な将軍になれたかもしれない。 激動の時代を生きた将軍。

 

徳川十四代・将軍家茂正室の和宮の墓

増上寺悲運の皇女。

静寛院宮(せいかんいんのみや)は家茂死後に名乗った名前です。生まれは1846年、死没は1877年。第120代天皇、仁孝天皇(にんこうてんのう)の第八皇女です。 

6歳の時に有栖川宮家の熾仁新王と婚約しました。14歳になり輿入れという段階で朝廷と幕府の政治の渦に巻き込まれます。突然政略結婚をさせられることになり和宮は拒絶しましたが様々圧力がかかり徳川家茂と政略結婚させられることになります。

和宮が行かないのであれば、孝明天皇(和宮の兄)の生まれたばかりの娘を徳川家に降嫁させるというのが決め手になったみたいです。今までの暮らしとは全く違うものでかなり苦労したようです。天璋院(篤姫)などとも最初はうまくいきませんでした。

和宮が悲運の皇女といわれる理由はこれだけではありません。なんと降嫁してすぐに徳川家茂が亡くなってしまいます。家茂は側室をもたず和宮の心を開く努力をし、お互いかなりの信頼関係を築いていました。和宮は自分の居場所、そして最愛の人を得ましたが4年間の短い2人の生活はあっけなく終わってしまいます。 

御存じのとおり徳川幕府は次の十五代将軍・徳川慶喜で終焉を迎えます。大政奉還が行われる前に和宮は朝廷から『帰ってきなさい』といった内容の手紙をもらいます。しかし和宮は徳川に残ることに決めます。なんでそう決めたのかは知りません! 

1868年に幕府軍と薩長軍が鳥羽伏見の戦いで衝突します。和宮は朝廷に徳川家を取り潰さないでと手紙を送るが相手にされません。薩長軍は容赦なくガンガン攻めてきます。しかし逃げることなく手紙を送り続けます。そして一度江戸にかなり近くなったところで薩長軍は進軍を止めました。皮肉にも敵方の総司令官はかつての婚約者、有栖川宮家の熾仁新王です。 

そのころ天璋院(篤姫)も薩長軍総大将の西郷隆盛に手紙を出しそれらの働きから西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸の町、江戸城は守られました。これが有名な江戸無血開城です。 

その後、明治10年に32歳の若さで和宮は亡くなりました。 

以上が増上寺にある徳川将軍家墓所に眠る方々です。

 

何故、将軍家全員ではないのか?他の将軍は?

増上寺まず歴代将軍の墓所があるところを列挙します。

・日光東照宮
・増上寺
・寛永寺
・谷中霊園

の4ヶ所です。

日光東照宮は遺言で『神になって関東を守る!』といった徳川家康です。そして、そんな家康おじいちゃんを崇拝していた三代将軍・家光も日光東照宮(輪王寺)で眠っています。

4、5、8、10、11、13代目の将軍は寛永寺に葬られています。さて、何故か?

 

増上寺ここでキーマンとなる人物が二人。徳川家光と南光坊天海という僧侶です。

天海は何かと謎多き人物ですが家康、秀忠、家光の三代に仕え厚い信頼を受けていました。彼は1624年に寛永寺を開山します。どのような経緯があったのかわかりませんが、家光は自身の葬儀を菩提寺の増上寺ではなく寛永寺で行わせました。

この流れで4、5代将軍は寛永寺に葬られることになります。こうして徳川将軍家の菩提寺が2つになってしまいました。

これを黙って見ていられない増上寺。『始祖が我々の寺を菩提寺と定めたのに酷い話じゃないか?!』と反発。

いちち
ごもっともですね!

解決策は『将軍が亡くなったら交代で弔おう!』です。

そういうわけで徳川将軍家墓所が増上寺と寛永寺の二つにあるのです。

 

終わりに

もう一人忘れてはいけません。激動の時代を生きた十五代・徳川慶喜です。

彼は上野の谷中霊園に埋葬されています。彼の代で徳川江戸幕府が終わりを迎え明治時代に入ります。『将軍としてこの世を去れなかったから増上寺、寛永寺に埋葬されなかった。』という方もいるようですが、ちょっと違います。

谷中霊園内には寛永寺エリアがあり、そこに慶喜は眠っています。なので寛永寺に埋葬されているということです。では何故ほかの将軍と一緒ではないのか?

それは朝敵になったのにも拘わらず明治天皇に赦され、更に公爵の位までいただいたことに感謝し遺言で『仏式ではなく神式で葬ってくれ。』というようなことをいったためです。従来の将軍の墓は仏葬なので墓は仏塔です。しかし慶喜は神道。これでは同じところに埋葬できませんね。

まぁ、『徳川将軍墓所に埋めてくれ!』といったら明治政府が黙っていなかったのかもしれません。慶喜は頭の切れる人だったでしょうから余計な問題を残さないよう遺言に遺した可能性もありますね。

おしまい!



増上寺

2 件のコメント

  • >徳川慶喜
    将軍でありながら、黒船、大政奉還、鳥羽伏見、江戸城無血開城したり、晩年は趣味に没頭したり。
    (ほぼ全敗なのに良く生き残ったな~。負けるが勝ちの見本のような。)
    江戸から明治へと導いた功労者でもありますよね。
    最後は谷中霊園とは。慶喜さんらしいです。

    増上寺に将軍さんお墓が現存するのですね。
    機会があったら散歩してみたいです。

    • 上総さん

      徳川慶喜は謎の魅力があります!現代的な思考の持ち主だったのではないかと思っています。

      増上寺はいいところですよー。
      悔やまれるのはもう一つの徳川将軍家墓所、寛永寺に行けなかったことです…。
      実は日光東照宮にも行ったこと無いんですけど…。

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    休日の殆どを一人旅に費やしています。いつか流浪の民になって日本中を周って過ごしたい。歴史、B級スポット、心霊スポットのネタが多めな旅行記ブログです。

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