泉岳寺と忠臣蔵で有名な赤穂浪士の墓について【東京の旅】

港区高輪の泉岳寺には忠臣蔵で有名な赤穂浪士の墓があります。泉岳寺では討ち入りがあった12月14日と4月の初旬に彼らを供養する目的の義士祭が開かれ多くの人々が集います。忠臣蔵ファンや赤穂事件について詳しく知りたい人は境内の赤穂義士記念館に寄るといいでしょう。館内では赤穂浪士に関係する遺品などの展示物、また彼らに関するビデオが上映されるので勉強になります。

私は泉岳寺に訪れるまで忠臣蔵の名前こそ知っていたものの内容を殆ど知りませんでした。今回は泉岳寺の歴史と忠臣蔵について書いていきます。

それでは参りましょう!

 

泉岳寺へのアクセス

多くの方が電車か行くことになると思います。電車なら都営浅草線の泉岳寺駅で下りてA2出口から出ます。駅から徒歩2~3分で着きます。自動車ですと第一京浜(国道15号)の泉岳寺の信号あたりの有料駐車場に停めて向かうことになります。都会の駐車場は高いし狭いしでいいことないので大人しく電車で行きましょう。

法事で行かれる方などは直接泉岳寺に問い合わせて下さい!

 

泉岳寺の歴史

泉岳寺 拝殿曹洞宗の泉岳寺は徳川家康が幼い頃に身を寄せた今川義元を弔うため、義元の孫である門庵宗関(もんなんそうかん)を拝請して創立した寺です。

拝請(はいしょう)は『立派なお坊さんを迎えて』みたいな意味です。

初めは現在の桜田門付近にあったそうですが、大火により焼失。時の将軍・徳川家光が現在の高輪に寺を移したといわれています。

 

赤穂浪士と泉岳寺

泉岳寺ここに赤穂浪士の墓がある理由は泉岳寺が赤穂藩主浅野氏の菩提寺だったからです。

写真は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の墓です。

それでは忠臣蔵で描かれる赤穂事件について見ていきましょう!

 

赤穂事件について

泉岳寺赤穂事件の発端は1701年。

正月になると幕府は朝廷にお年賀の挨拶するため使者を送っていました。そして3月くらいに朝廷が返礼として幕府に勅使を出し幕府はそれをもてなします。

赤穂事件は返礼を迎える祭事の最終日に起こります。天皇の使者を迎える高家代表の吉良上野介とその補佐の浅野内匠頭。

高家とは儀式、儀礼を司る役職です。

江戸城内で浅野内匠頭が突然、吉良上野介に切りかかります。吉良上野介はなんとか一命を取り留めますが浅野内匠頭は五代将軍・徳川綱吉の怒りを買い即日切腹を命じられます。そして浅野内匠頭が藩主を務めていた播磨赤穂浅野家は改易となりました。

まとめ

浅野が吉良を斬りつける→浅野切腹→播磨赤穂浅野家改易

 

泉岳寺吉良上野介が反撃のため抜刀していたら喧嘩両成敗で双方罰せられたはずでしたが、完全無抵抗であったため罪罪に問われませんでした。これを知った浅野家臣は激怒し『仇敵・吉良上野介討つべし』と暴走しそうになります。

ところが筆頭家老の大石内蔵助は『浅野家再興の可能性はまだある!』となだめます。

まとめ

播磨赤穂浅野家改易→吉良お咎め無し→浅野家臣『吉良討つべし!』→重臣の大石内蔵助は冷静

 

泉岳寺復興の頼みの綱である浅野大学(浅野内匠頭の弟)が広島浅野宗家に永預され赤穂浅野家再興の可能性が無くなってしまいます。

永預は『ながあずけ』と読み、自家より身分が高い大名に拘禁されることです。

ちなみに広島浅野宗家は豊臣秀吉政権『五奉行』の一人、浅野長政の次男・浅野長晟が初代。赤穂浅野家は浅野長政の孫・浅野長直が初代。

まとめ

浅野家存続不能→大石内蔵助を中心に吉良討ち入りの徒を結成

 

泉岳寺完全に行き詰った大石内蔵助らは悩みに悩んだ挙句、仇敵の吉良上野介邸に乗り込み討ち果たしました。首を浅野内匠頭の墓前に供え幕府に自首。幕府から切腹の命を受けて全員切腹。という話です。

まとめ

吉良邸討ち入り→敵討ち成功→全員切腹に処される

 

大石良雄外十六人忠烈の跡

大石良雄外十六人忠烈の跡

ここは泉岳寺ではなく肥後熊本藩細川氏の屋敷跡です。

いちち
なんで、浅野内匠頭は吉良上野介に切りかかったのか?
と疑問に思いましたので調べました。

取り押さえられた時、浅野内匠頭はこんなことを言ったそうです。『最近、吉良さんにむかついた。江戸城内、しかも大事な日だったけど、今しかないと思った。討ち果たせてくれ。』

幕府公式の常憲院殿御実紀という書物には

『長い間、吉良さんは朝廷関係の仕事をしてきたのでそれに関して右に出るものはいません。というわけでみんな吉良さんに賄賂を贈ったりして媚び売っていました。しかし浅野さんは吉良さんの機嫌を窺うことなくマイペースで職に当ります。吉良さんはそれが気に入らなく秘かに退けます。それによって浅野さんは時間に遅れたり、礼節を失うことになります。これを恨んで事を起こしてしまったのではないでしょうか?』

みたいなことが書いてあります。

斬られて運ばれていく吉良上野介に恨みについて聞くと『恨み???何のことだろうか…?」とのこと。

常憲院殿御実紀のこの部分は編纂時の巷説(噂話)ともいわれている。

また浅野内匠頭を取り押さえた梶川頼照の日記に

『この時のことを思い出し、浅野さんの内心を察すると吉良さんを討ち果たせなかったのは無念であったでしょう。突然のことだったのでああするしかなかったのです。』

この日記は赤穂事件が世間に知られ『赤穂義士こそ武士の鏡』という風潮になってから書かれたものなので、取り押さえた梶川頼照は自分が叩かれたくないため止む無く書いた可能性もある。今で言う炎上回避!

これらのことを見るに、まぁ何かしらあったのでしょう。ただ…。殺す程の事だったのか?とは思いますが。

大石内蔵助はとても複雑な心情だったと思います。本人は赤穂藩が改易になったことで京都に住みお家再興ため2年くらい奔走します。結果は討ち入りで終わりましたが、きっとこれは幕府に対する最後の訴えだったのでしょう。

幕府内でも厳罰派と恩情派で分かれたらしいです。助命の意見も出ていたそうですが、切腹になりました。ちなみに浅野大学は徳川綱吉が亡くなった時の大赦で許され旗本として復活しましたとさ。

 

終わりに

泉岳寺事件の真相がわからない…。故に歌舞伎や劇、映画などは編集者が上手に肉付けしています。そしてその創作が定説になり広まっていく。 

歴史を勉強しているとたまにこういうことあります。

いちち
あれ?一般的な認識と全然ちがうじゃん?
本当の所はどうだったかわかりませんが、赤穂事件の一説には浅野内匠頭が狂って吉良上野介を斬ったという話があります。もしこれが真実だったとするならば忠臣蔵なんて物語はこの世になかったかもしれませんね!

おしまい!



泉岳寺門

2 件のコメント

  • >事件の真相がわからない
    喧嘩なにて、両方とも自分が正しいと思って発生するわけで、
    負けた?側の記録が残りにくくなりがちで、映画や劇にする場合には、主人公寄りになってたりしますよね。

    >肥後熊本藩細川氏の屋敷跡
    >赤穂義士記念館
    泉岳寺は訪問したことあるのですが、この2ヶ所は興味が出てきました。

    • 上総さん

      歴史ってそんなものですよね!だから後世の作家や芸術家が自分の思想を上手く取り入れて面白おかしく出来るんですよね。

      細川氏の屋敷跡は住宅街の中にぽつんとあります。中に入ることは出来ないので外から眺めるだけです。

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