砦に拠るを読む。蜂の巣城紛争と室原知幸について【熊本の旅】

下筌、松原ダム建設を巡って起きたダム反対運動、蜂の巣城紛争(1958年~1970年)。

蜂の巣城紛争はダム水没地区の住民・室原知幸が中心となり、国に対して果敢に挑みました。これは日本国にとって歴史的に重要な戦いとなり、その後の公共事業の在り方や進展に多大な影響を与えました。

それでは、ノンフィクション小説『砦に拠る』に沿って、蜂の巣城紛争がどのような戦いだったのかを見ていくことにしましょう。

故に当記事で引用する法律は過去のものなので現在に適応していない可能性があります。というか適応していないといった方がいいでしょう。そこらへんご了承ください。

 

下筌ダムの場所

ダムは熊本県小国町と大分県日田市の県境に位置します。蜂の巣城跡は熊本県側にあります。

 

砦に拠る ~蜂起の章を読んで~

下筌ダム

書き出しは室原知幸の妻・ヨシが夫について語るシーンから始まります。

知幸はもの凄く亭主関白で逆らうことなどできなかったが、自分が重病で寝込んだときにはよく看病してくれた。『口と腹とは違ったんだな。』とそれはそれで幸せな人生だったというべきかもしれない。『ダムの問題さえなければ…。』と。

独特な方言(肥後弁と日田弁のmix)で語られているため少し読みにくいかもしれませんが、ヨシの思い出話で室原知幸がどんな人だったのかが想像でき、その後の内容もスムーズに入ってくる素晴しい冒頭です。

室原知幸について

1899年(明治32年)生まれ。熊本県小国町黒渕志屋の出身。

当時としては珍しく大学に行っており、地元では『大学さん』というあだ名で呼ばれていました。学校は早稲田大学政治科。大正デモクラシーの影響を受けた大学生活でしたが、他の行動を重視する学生とは違い理論や理屈を重要視する変わった生徒だったそうです。

28歳のときに地元に戻ります。政治がしたいと37歳で小国町の議員に当選。しかし潔癖すぎて政治家には向いていなかったとのこと。そして晩年に下筌ダム、松原ダム建設を巡って国と戦います。

 

ダム建設のきっかけ、二八災が襲う

1953年(昭和28年)6月25日~6月29日に九州北部を集中豪雨(二八災)が襲います。

被害は久留米市を中心として筑後・佐賀両平野にわたり、堤防決壊二十六ヵ所、田畑冠水六万七千町歩、死者百四十七名、流失家屋四千四百戸という惨状で損害被害は四百五十億円に達した。

砦に拠る 蜂起の章 25pより

この水害により下筌ダム、松原ダム建設計画されることになります。

普通は水没地関係者を交えて話を進めて行くべきでしょうが、国はそれを怠ってしまいます。

 

蜂の巣城紛争緒戦

1956年(昭和31年)、九地建(建設省・九州地方建設局)が下筌ダム建設予定地両岸の調査が行われます。測量士が室原知幸所有の山に無断で入り、しかも測量するために木の伐採を行いました。この身勝手な行為に知幸は激しく抗議します。

これが蜂の巣城紛争の緒戦といえるでしょう。この問題は九地建が五千余円の保証金を支払い治まります。

いちち
これが元凶…。

その後は知幸の承諾を得て調査が行われます。しかし何のために調査しているのかは明かされませんでした。近所(志屋部落)の住民らは3ヵ月にも亘って行われる調査に不安を感じるようになります。また調査のため田畑が荒らされたことで『知幸が勝手に調査許可をしたからこうなったんだ!』という不満が出始めます。

そして九地建がボーリング調査の許可を得るため知幸のもとへ訪問してきたときに『何のための調査なのか?』と問います。

答えないわけにはいかない九地建は志屋小学校で集会を開き、ここで初めて住民は自分たちの土地が水没するという事実を知ることに…。同様を隠せない彼らは田畑を荒らしたことを含め九地建を激しく非難しますが、九地建は『対策委員会を作って抗議してくれ。』と言い放ち集会は解散となります。

九地建は遺恨を残してはやり辛いと職員を志屋部落に送り酒を持って非礼を詫びに訪問。最後に知幸の家に伺いますが『疲れたから休ませてくれ。謝りに来たことはよいことだ。』というようなことをいって帰らせます。

次に九地建の職員が志屋部落に訪れたとき、室原家の門柱に『面会謝絶』と書かれた木札が掛けられていました。そして木札は志屋部落、浅瀬部落、芋生野部落、蕨野部落と徐々に広がっていき九地建はこの地域の人々と接触出来なくなります。

 

何故、室原知幸はダム反対の立場をとったのか?

下筌ダムどうやら彼は当初、ダムの建設を受け入れていたようです。ダムが出来るかどうか何ともいえない時期に『何処かに集団移転できるような場所はないか?』といったことを従弟や志屋部落の仲間に呟いていたことがわかっています。

では何故、面会謝絶の木札を出したのか?

作者曰く、

志屋小学校での説明会こそが、室原知幸を反対へと転換させてゆく直接のきっかけであったと見るべきであろう。その時知幸は、部落中の男達が口々に憤激してダム反対を叫んだその勢いに驚いた。

日頃温順なだけの里の男達が初めて見せた団結した意思表示の激しさが、知幸を衝き動かしたのだ。よし、皆がこれほどに反対であるなら己れが先頭に立とうと決意することは、抜きん出た学才によってこの里の指導者を自負する知幸にとって、当然であったはずだ。

砦に拠る 蜂起の章 45pより

これに付随する理由が幾つか述べられていますが、引用ばかりになってしまうので割愛します。

 

デモ隊の出陣

1958年(昭和33年)の9月22日。志屋小学校から反対派130名が出陣!水没地になる部落へデモをかけ始めます。デモは何度か行われ、12月10日の第五回目には400名にも膨れ上がりました。

これにはダム建設を認めていた大分県側の部落も動揺を隠せず九地建に『建設されるのか、されないのか?はっきりしろ。』と念を押してきました。

そして、1959年(昭和34年)1月。九地建は土地収用法の適用に踏み切ります。土地収用法は『国は公共の利益となる事業のためなら私有地を収用出来る。(もちろん条件はある)』という法律です。

 

九地建の強行

土地収用法を進めるためには県知事が土地所有者に意見を聞かなければならないので、九地建は熊本県知事にお願いして室原知幸に意見を求める書類を送ります。

それを受け取った室原知幸は所謂お役所仕事な書類に対し怒りの返信。もう一往復やり取りをして熊本県知事は法的なやり取りは終えたとし、九地建に試掘やボーリングの許可をします。もちろん知幸は納得していません。

許可を得た九地建は1959年(昭和34年)5月、山林の伐採作業を開始します。5月13日から伐採を開始し19日に志屋の住民が初めてこれに気づきます。これに対し知幸らは作業員の上手に登り看板を掲げ迫り撤退させたり、杉を燃やし燻して追い出したり、一夜にして山腹に丸太小屋を築いたりと籠城作戦に入ります。

いちち
これが蜂の巣城の始まりですね。過去の写真がインターネットの画像検索で見れます。凄まじい執念を感じる砦です。

 

砦に拠る ~築城の章を読んで~

下筌ダム蜂起の章と同様にヨシの語りから始まります。知幸と一緒に柚子を捥いだ幸せな思い出を懐かしみ、ダム反対運動が始まってからの苦悩を語ります。

1959年(昭和34年)6月12日、九地建は請負業者を伴い蜂の巣城対岸で説明会を開きました。籠城者たちはこれを妨害するためサイレンを鳴らし怒声を浴びせます。更に蜂の巣岳の山頂から巨石を落としたり竹槍を持って脅しをかけ敵を撤退させます。

 

熊本県知事の訪問

8月に熊本県知事が説得するため直接やってきますが、

「(前略)、私どもが今居る場所は、あなたの許可で丸裸にされた所でーす。よーくこの光景を見てお帰りくださーい。今更話し合うことはございませーん」

砦に拠る 築城の章 104pより

と知幸の弟、知彦が言い放ち相手にしません。これを弟にいわせた意味は『お前には城主の自分が出るまでもない。』ということ。

県知事は『もう二度とこんなところに来たくないと。』退散します。

いちち
築城初期は皆、興奮していたこともあって痛快愉快だったことでしょう。

 

筑後川改修期成同盟との会談

10月には筑後川改修期成同盟という二八災で被害を受けた筑後川下流民らが知幸のもとを訪ね会談します。下流域七十万が感謝金を積む覚悟で立ち退きのお願いに来ましたが、知幸は『ダム建設以外にも洪水を防止方法はあるはず。』と意見をいい話は平行線を辿ります。後に両者は激しく争うことになります。

 

穴井武雄と蜂の巣城

IMG_3419冬頃からどんどんと小屋が造られ砦のような姿になります。

蜂の巣城築城に特に活躍した人物が穴井武雄です。彼は外から志屋に入って来た新参者でしたが、土木建設を生業にしていたため知幸から重用されます。彼がいなければここまでの規模にはなっていなかったでしょう。

彼にだけ給料を与えるなどの特別待遇、職人気質な態度に反感を募らせてしまいます。後に志屋部落の人々が知幸から離反していく中、終盤まで彼は知幸に従い築城を続けていくことになります。

 

知幸、国会に立つ

1960年(昭和35年)2月4日。

国は室原知幸外六十四名を被申請人として熊本地方裁判所に「試掘等妨害排除仮処分命令」を申請

砦に拠る 築城の章 132pより

これは土地収用法の手続きが済んでいるのに立ち退きしない反対者に退くように命令してくれというものでした。

これに対し知幸は、

国を被申請人として「妨害排除仮処分命令」を熊本地裁に申請

砦に拠る 築城の章 133pより

これは『蜂の巣城内には家があり人が住んでいる電灯や電話設備び占有、使用を国は妨げてはダメだろ!』という意味です。ここから訴訟合戦が始まり、知幸は晩年の10年間で80件に近い争訟に明け暮れます。

この戦いによって土地収用法の徹底的な見直しが行われることになりました。

革新派の弁護士を雇い、その流れで社会党の小松幹という知幸の母方の遠縁と出会います。小松幹は衆議院予算委員会で下筌、松原ダム問題を緊急質問し議論が国会に移されます。そして参考人として室原知幸が国会に立つことになります。

ひとつ、国会で田中正造ばりん大演説をぶってくるか

砦に拠る 築城の章 137pより

といい熊本から出発。

国会での発言は主に九地建の非礼についてでした。これに対し村上建設大臣は『そんなことなのか?それ程深い問題でもなさそうだ。』的なことをいってしまいます。そして知幸は最後に『徹底的に戦う決意です!』と言い放ち国会から帰ります。

いちち
九地建(というか国)の対応が間違っていなければここまで大事になっていなかったということを大臣は最後までわからなかったのでしょう。

 

戦略的な蜂の巣城築城

前述のとおり蜂の巣城は土地収用法の穴を突くため居住地として増築されていきました。また法によって撤去できる障害物は所在位置、形状等を正確に県知事に申請しなければならないというところを利用し、建物の位置を小まめに移動し変幻自在な城を造り上げます。

 

砦に拠る ~勝鬨の章を読んで~

下筌ダム蜂の巣城籠城隊vs九地建隊の本格的な戦いが始まります。津江川に橋を架けて蜂の巣城を目指す九地建隊とそれを妨害する籠城隊。1960年(昭和35年)6月20日から29日まで行われた戦いは一時休戦で幕を閉じます。

蜂の巣城籠城隊は防衛に成功しますが、20日に行われた戦闘で九地建隊に怪我人出たため室原知幸は訴えられ逮捕令状が発せられます。

途中、雨が降って河川が増水したので毎日戦っていたわけではありません。

 

知幸、逃げる!

親族は出頭したほうがいいと説得しますが、聞き入れず山に逃げます。100人の警察が知幸を追います!しかし見つかりません。

知幸は津江川対岸の部落の小屋の中に隠れていて、しばらくして弟の知彦宅に姿を現しました。そこで皆に再度説得されて出頭しそのまま逮捕されてしまいます。

いちち
『警察に見つからずどうやって川を渡ったのか不思議だ。』とヨシが回想しています。知幸とって辺りの山は庭みたいなものだったのでしょう。心底怯えながら逃げたのか?それとも鬼ごっこのような感覚でハラハラしながら逃げたのか?どんな心境だったのか気になるところです。

 

ダム反対派の動揺

7月10日、知幸は持病(心臓病)が悪化する。

7月19日、親類の亥十二の病院に入ることを条件に保釈出所。

7月28日、志屋部落へ戻る。

室原知幸は懲りません。部落に戻って間もなく知彦に

こん年になっちゃ赤っ恥かかされた。おれも建設省ん奴どんに傷を負わせんで済ますか。みちょってみい……俺が生きちょる限り……

砦に拠る 勝鬨の章 201pより

知幸が逮捕、先の津江川の戦いで酷くはないものの流血の事態まで発展してしまったことに平和な部落の人々はショックを受けます。また、敵があまりに大きい組織だということを再認識。このまま戦いを続けていって自分たちの将来はどうなってしまうのか?これまでダム反対派として戦ってきたが…。

 

再び開戦!

下筌ダム第二回目の戦いから労働組織(今でいう労働組合か?)が籠城隊の味方に付きます。作中ではオルグと呼ばれ『国家権力(警察)が農民を弾圧している。許すまじ!』という大義のもと戦闘に参加しました。

戦いは7月29日~30日の二日間行われました。九地建隊の猛攻凄まじく遂に御仕舞かと思われたとき、攻城中止の命令が下ります。九地建の作業員たちはなお士気高く『何故、止めるのか?もうすぐじゃないですか?!』と憤る。この中止は建設大臣(橋本登美三郎)からの指令でした。流石に大臣命令を蔑ろにするわけにはいかず渋々撤退する九地建隊。

いちち
6月20日に始めった津江川の戦いはこれでひと段落します。籠城側の辛勝ですが、直接対決に限っては勝ち筋がないといったところでしょうか。でも室原知幸の目的は蜂の巣城を防衛することではありません。ダム建設阻止も目的の一つですが、『この戦いで日本という国の面の皮を剥いで見せましょう!』というところにあると思います。そういった意味では思惑通りに進んでいたのかもしれません。

 

大臣に会わず

忙しいにも拘わらず橋本大臣は二度も時間を作りました。しかし知幸は周囲の意見を聞き入れずこれを無視。ワンマンすぎる知幸、将来への不安、部外者のオルグ団の介入…。様々な要因が重なりダム反対派内部に亀裂が生じ始めます。

 

砦に拠る ~争訟の章を読んで~

下筌ダム再びヨシの語りから入ります。これがあることによって堅苦しい訴訟の話や殺伐とした戦いの物語が和らぎ本書を読みやすくしています。また妻目線でしかわからない室原和幸の姿が浮き彫りになっていきます。彼女なしでこの小説は完成しなかったでしょう。

ダムのことになると口に泡を溜めて何時間も怒鳴り散らすのに、娘の結婚式でのスピーチは緊張して下手糞な挨拶しかできない、また弔事の際も私(ヨシ)が挨拶して和幸はただ頭を下げているだけだったという意外な一面が語られています。

 

砦での長い生活

1961年(昭和36年)に入ると和幸はお地蔵様を蜂の巣城に迎えたり、津江川にあひる、鯉、鱒の飼育、菜園作り、躑躅の栽培を始めます。これは長期の籠城を見越して砦に日常の空気が流れるよう願ったものです。

 

蜂の巣城紛争の興廃を賭けた訴訟

前年の5月28日に東京裁判所へ提訴した事業認定無効確認訴訟。これに勝てばダムは建たない、負ければ蜂の巣城に後はない。この訴訟の重大さに気づいた石田裁判長は何度も東京から蜂の巣城へ訪れ現地検証をしています。

原告側が論駁し続けたのは、土地収用法第十九条が定める<事業認定申請書の欠陥の補正及び却下>に触れてである。

砦に拠る 争訟の章 256pより

室原和幸がいう事業認定申請書の欠陥とは?それは特定多目的ダム法の第四条で定められている基本計画を作成されていないことでした。下筌ダム、松原ダムは発電所を併せ持った多目的ダムです。しかし九州電力の発電所計画が遅れていたため事業認定申請書には発電に関する重要事項がないまま計画書が作成されていたのです。

いちち
寝る間も惜しんでダム反対運動に関連する法律を勉強した室原和幸の意地!

 

判決!

1963年(昭和38年)9月17日。

主文

一、原告末松豊の訴を却下する

二、原告室原和幸、同穴井隆雄、同末松アツの請求をいずれも却下する

三、訴訟費用は原告等の負担とする

砦に拠る 争訟の章 264pより

敗訴…。

『法には法』を主張する彼は判決に悪態をつくことなく冷静でした。

勝っても負けてもわしゃ驚かん。もちろん控訴するよ。

砦に拠る 争訟の章 265pより

続いて裁判に関わった石田裁判長の思いが綴られています。ここは『砦に拠る』のなかでも見ごたえある場所なので実際に読んでいただきたい。

 

控訴!

下筌ダム敗訴してすぐに控訴手続きに入る室原和幸。

12月7日夜、東京の坂本弁護士から電文を受け取ります。『控訴が今日で休止満了になるが、どうしますか?』といった内容でした。

これには為す術がなく、訴訟の意思がないと取り下げられてしまいます。

そして敗訴判決が確定。

いちち
なんでこうなった?意味がわからないよ…。

陰謀論、単純なミス、坂本弁護士と室原和幸の仲違いなど色々な説があります。はっきりとした原因はわかっていません。

 

一つ目の離反

室原和幸は彼の紹介で前述した通り小国町の町会議員を務めていた時期があります。その際に選挙バトルを繰り広げたのが同じ志屋部落の北里家。当時、北里家は代替わりしていて達之助が治めていました。彼は若く既に町会議員だったため部落の青年らを指導している立場でした。

達之助は事業認定無効確認訴訟の勝敗を静かに見守っていました。

私の内心はもう最初からダム賛成でしたね。

砦に拠る 争訟の章 277pより

彼はこう回想しています。

では何故、反対派だったのか?

当時はまあダム反対にあらずば部落内に住めんといった雰囲気でしたもんね。

砦に拠る 争訟の章 277pより

室原和幸率いる反対派の影響力は凄まじく政治的にライバルだった北里家も取り敢えずは従うしかなかったようです。

1963年(昭和38年)10月25日、敗訴から約一か月後に彼は水没者同志会を発足しダム反対派から離反します。達之助は民主的で人を惹きつける能力にたけており、経営者としての才覚を持っていました。独裁者として君臨した室原和幸とは正反対な人間だったといえます。

この離反により反対運動派が瓦解していくことになります。

 

二つ目の離反

次に離反したのは穴井隆雄です。彼は室原家と同様にダム建設予定地の山林を持つ地主でした。ダム反対の気持ちは本気だったと思われますが、それよりも室原和幸の強烈な個性にずるずると従っていたという節があります。

1964年(昭和39年)3月26日、室原和彦宅で穴井隆雄は密会を開きます。一同一致で賛成派に転化しようと決定します。『さて、誰がこのことを和幸に伝えようか…?』

蜂の巣城築城を一任されていた穴井武雄は和幸にとって特別な存在と見做され呼ばれませんでした。

翌日、蜂の巣城にいた和幸を訪ねる一同。しかし中々言い出すことが出来ません。切り出したのは穴井隆雄の長男、昭三でした。

賛成派は『もう無理だから一緒に山を下りよう。』と説得しますが、和幸はブチ切れて彼らの心を離す決定打を放ちます。

お前達百姓は、はっきりいうて、おりが足手纏いになったぐらいたい。おれは初めっからいうちょる。

(中略)

お前達がおらんごつなりゃ、足手纏いが無うなって、おれはかえってせいせいするたい

砦に拠る 争訟の章 295pより

 

砦に拠る ~落城の章を読んで~

下筌ダム部落の殆どが蜂の巣城から去っていき室原和幸ひとりの籠城になるのかと思いきや。むしろ籠城隊の人数は増えていきます。それは革新労働組織のオルグ団によってです。

和幸とオルグの思想は全く異なっています。

和幸は『日本国の現行の民主主義には穴があり、それを自分が突くことで国によく考えてもらう。これが将来の日本のためになることだと確信している。』

オルグは『現在の政権、極論すれば日本国そのものの在り方を変えようとする革新派。』

恐らく互いに『なんだ此奴(等)は?』と思っていたでしょうが、利害は一致していたので取り敢えずは協力しあいます。

共産党も社会党も応援に来るのが遅すぎたくらいじゃ。道理がわかれば、だれでもわたしに賛成するのが当たり前。自民党はまだこんのか

砦に拠る 落城の章 315pより

当時の新聞にあった和幸の言葉だそうです。

いちち
彼は革新オルグ団の社会思想なんてどうでもよかったのです。ただ自分の思いを達成するために使えるものは何でも使えの精神だったのでしょうね。

 

蜂の巣城落城

一九六四年五月十一日、国は蜂ノ巣城に対して代執行令書を発した。既に国有地として収用裁決されているその山腹を五月十五日から七月十五日の間に砦を取壊して収用しようというのである。

砦に拠る 落城の章 308pより

そして6月23日、強制代執行が始まります。

籠城隊は約700名、九地建隊は約600名。そして熊本・大分両県警の700名。

途中から警察隊が参戦し見る見るうちにオルグ隊は城の外へと担ぎ出されていきます。和幸は書斎に鍵をかけ立て籠もりますが仲間に説得されて山を下ります。こうして蜂の巣城は呆気なく落城してしまいます。

蜂の巣城こそ落城しましたが、室原和幸の心の炎は消えるどころか一層強くなるばかりでした。

 

後片付け

九地建は落城した蜂の巣城の残骸を集め室原和幸に引き渡すという大仕事が待っていました。もしこれを疎かにすれば間違いなく和幸が訴えてくるからです。和幸は九地建が集めた解体材の受取を無視して時間稼ぎをします。また以前、城の日常化を目的で飼ったアヒルが活躍しています。アヒルは戦いに乗じて逃げ出したため九地建は全部探し回収しなければなりませんでした。

1964年(昭和39年)7月20日から九地建は表土掘削作業を開始します。

 

九地建の所長交代

これまでの紛争を戦い抜いた野島所長が更迭され新しく副島健が所長に変わります。理由は簡単にいうと上層部が野島所長を止められなくなってきたからだそうです。

福岡県法務局訴訟部長の広木はこう例えている。

野島君と現地工事事務所の存在は今や九地建の関東軍的存在となっているんですな……

砦に拠る 落城の章 345pより

詳細はわかりませんが、暴走気味になっていたのでしょう。蜂の巣城が落城した今はもっと冷静な指揮官が対処すべきだと上層部が判断したわけです。

副島所長は手回しを怠らず室原和幸を攻略しようと試みます。

 

次なる防衛戦

さて、室原和幸が次に取った策は山の立木を仲間や家族に贈与、闘争記念林と名付け彼らを所有者にするというものでした。一本の立木を数人に贈与し複雑に細分化させます。これを収用裁決を申請するには一本一本の権利者の署名を得て調書を作らなければなりません。

九地建は下記の土地収用法第三十六条四項を使い調書を完結させます。(現在のもので当時の内容はわかりません。ただ文面が異なっていたとしても同義なので引用します)

第二項の場合において、土地所有者及び関係人のうちに、同項の規定による署名押印を拒んだ者、同項の規定による署名押印を求められたにもかかわらず相当の期間内にその責めに帰すべき事由によりこれをしない者又は同項の規定による署名押印をすることができない者があるときは、起業者は、市町村長の立会い及び署名押印を求めなければならない。この場合において、市町村長は、当該市町村の職員を立ち会わせ、署名押印させることができる。

土地収用法第三十六条四項

 

第二の蜂の巣城と副島所長

下筌ダム1965年(昭和40年)4月1日、国は新しい法律を施行します。これは河川の管理者を一級河川に限り県知事から建設大臣の直轄に変えるというものです。

和幸は蜂の巣城が落城してすぐに第二の蜂の巣城を築き始めていました。第一ほど大掛かりなものではなかったようですがダム建設の要となる箇所を押さえたやっかいな砦だったそうです。

副島所長は新河川法の初適用による第二の砦の除去命令を発しにやってきます。和幸は当然の如く訴訟を起こします。しかし九地建は地裁での第一回審尋の6月12日の前日に奇襲をかけ落とします。この戦いで生活用の給水パイプが撤去されてしまいヨシと知彦(和幸の弟)の妻・トシが工事事務所に抗議します。

副島所長は直接、室原和幸に会ってパイプの件を釈明したいと上司に伺い立てるが却下されます。

『さて?どうしたものか。』

副島所長がとった策は自分の妻・蔦子を詫びの使いにやることでした。こうすれば自分は何も知らなかったと弁明できるということです。

さすがの和幸もビックリします。下記のような会話が小説では書かれています。

「主人が御迷惑をお掛けします」

(中略)

「なーに、奥さん、心配するこたぁいらんたい。わたしは建設大臣を相手に喧嘩しよるんで、なあもあんたのとうちゃんが相手じゃないたい」

(中略)

「あんたもそげなんこつ一々気にしよったら、とうちゃんに浮気さるるばい」

砦に拠る 落城の章 368pより

いちち
副島所長は穏やかな顔つきで柔らかい性格をしていましたが、和幸を刺激せずどう懐柔していくか常に考えていました。小説を読み進めると副島所長の人柄の良さに惚れてしまいそうになります。

 

第一次条件派が去る

1965年(昭和40年)の夏、志屋部落は25世帯から12世帯に減少します。第一次条件派たちが村から出て行きます。

 

砦に拠る ~王国の章を読んで~

下筌ダム小説・砦に拠るは王国の章で終わります。

いちち
蜂の巣城紛争のクライマックス!そして室原和幸はどうなったのか?

どうぞ最後までお付き合いください。

 

第三の砦を築城

室原和幸は穴井武雄と共に国有地になっている山林に第三の蜂の巣城を築城します。副島所長は『国有地と知って砦を建てるなんて室原さんらしくないな。』と思いながらも作業員を指示し砦を撤去させます。

これに対し和幸は『自分の土地と国が買収した土地との境界線が間違っている!』と指摘し『土地境界線確認の裁判でもするか?』と副島所長にいいます。

和幸は丸太を担いで再び砦を造ろうとしますがよろつきます。それを支えた副島所長は

室原さん、そらぁ危ないですばい。やめてくださいよ。私ん目の前であなたに大怪我でもされようもんなら、たちまち私ん首が吹っとびますばい

砦に拠る 王国の章 384pより

とおどけてみせます。

少し前の和幸なら怒声を浴びせて突っ返していたでしょうが、徐々に心境が変わっていったのでしょう。副島所長と談話をする場面が流れます。

結局このあと第三の蜂の巣城が築城されるのですが、二か月後に再び撤去されています。

 

闘争記念林の自主撤去

ダム反対運動の一環として仲間に贈与した闘争記念林の強制代執行が迫っていました。これについてダム反対派内部では自主撤去を『すべき派』と『せずに徹底抗戦派』で分かれ激しく口論になります。室原和幸は『すべき派』を採用します。

『徹底抗戦派』はオルグ団の上層部でこれにより彼らと袂を分かつことになります。

『すべき派』を採用したのを見て周囲は『室原さんもとうとう折れたか。もう和解かな?』と思ったらしいですが、そうは問屋が卸さない!

めっちゃゆっくり伐採作業を進めます。

更に闘争記念林奥の未収用地に第四の蜂の巣城を築城してしまいます。結局、強制代執行が行われ山林の伐採が開始されます。

 

ダム反対⇔対反ムダ→大半無駄

伐採木が未収用地に倒れこんだ際、和幸は不法侵入者として伐採木を縛り付けてしまいます。副島所長が謝りに向かうと『ダム反対』と看板に書いている和幸がいました。看板を書き集中しているふりをした彼に無視され『どうしたものか?』としばらく立ち尽くします。

少し考えた副島所長は『一緒に書いたらすぐ終わって話を聞いてもらえるだろう。』とぶっ飛んだ思いつきで和幸の手伝いをします。さすがの彼も、

こらっ、何をするとか!君達にそげなこつさせらるるか。えっ、副島君、建設大臣が知ってみよ、君ん首が飛ぶばい

砦に拠る 王国の章 399pより

と驚きを隠せません。

いちち
もう二人は打ち解けているんですね。今までの彼とは別人のようにも見えます。というか副島所長と話しているときが素の室原和幸だったのかもしれません。

このとき、和幸は副島所長にいいます。『君は何を書いているんだい?』

真意がわかりません。誰がどう見ても『ダム反対』と書いている。

『君たちはそれを逆さに読んでいるんだよ(笑)』『ダム反対⇔対反ムダ→大半無駄ってね!』

 

第二次条件派が去る

1966年の晩夏、第二次条件派の人々は志屋部落を去り、残った者はたった10名。そして部落まで来ていたバスは新道を通るようになり部落に来ません。完全な陸の孤島になってしまいました。

 

築城の達人、穴井武雄との別れ

砦の築城に貢献し、室原和幸から特別視されていた穴井武雄が彼のもとを去ります。原因は穴井武雄の息子がダム建設現場で働き始めたことを和幸が知り、それを咎めたからです。

これに対し『自分と息子の人生は違う!私は息子が敵側にいても反対運動を続けるつもりだ。大将に咎められる筋はない!』と伝えます。

そして、和幸は…。『もううちの敷居は跨がないでくれ。』

これで二人の関係は終わってしまいます。

いちち
穴井武雄さんの将来を考え敢えて室原さんは彼を突き放したようにも思えますが、単純に短気者同士が喧嘩別れしただけなのかな…。このシーンは何だか読んでいて悲しい気分になりました。

 

王国宣言

1967年(昭和42年)1月28日、ダム建設は着実に進みコンクリートの打設が開始されます。ダム工事関係者たちは『やっとここまで来たか。』始めてコンクリートが岩盤に敲きこまれたとき彼らは万歳三唱をしたといいます。

しかし室原和幸はそんな光景を気にせず『まだまだ戦える!』と意気込み諦めません。争訟意欲は衰えることを知らず盛んに訴訟を続けます。そして1967年(昭和42年)2月12日、自宅に掲揚台を作り『赤地に白丸』の国旗を掲げます。

『日本の国旗は権力が国民を取り囲んでいる、室原国は国民が権力を包み込んでいる。』という意味があるそうです。

この頃になると彼のように公共事業相手に苦しんでいる人々が情報交換のため和幸に手紙を贈ったり、話を聞きにきたりするようになります。

 

変化する室原和幸

抵抗は続けていたものの確実に彼の性格は柔らかくなっていきます。『森純利との語り合い』や『副島所長、石田裁判長と耶馬渓へ出掛けるシーン』を読むと少し前の室原和幸が別人のように思えてきます。

森純利は重要人物なのですが、これまで触れませんでした。砦に拠るには多くの登場人物が出てくるため全て記事に出してしまうとキリがありません。彼について気になる方は小説を買って読んでください。

 

蜂の巣城紛争の終わり

1969年(昭和44年)の春、志屋小学校が廃校になります。児童は3人だけでした。

7月24日、弟の知彦が日田へ引っ越したため残りは室原和幸、ヨシ、その娘博子と知子の4人だけに。

室原邸を強制収用したくない副島所長は森純利に相談。純利はうまい具合に和幸から『どうしたら幕引きできますかね?』と尋ねます。

そうたいねえ……やっぱあ、大臣が詫状くらい書かないかんなあ

砦に拠る 王国の章 438pより

無理難題に思えますが、副島所長と森純利は建設大臣の詫状を入手します。

『これを受け取って終わりにしていただけますか?』と和幸に伝えると少し待てと…。

『近いうちに自分を散々侮辱し国賊扱いしてきた下流の連中が謝りに来るはずだ。そのときに大臣の詫状を受け取って仕舞いにしようではないか。』

 

1970年(昭和45年)1月22日、室原和幸は呼吸困難に陥ります。医師の処置でなんとか落ち着くものの様々な病気が併発していて楽観視出来ない状況に…。

 

4月23日、松原・下筌ダム建設促進対策協議会の代表らが室原邸にやってきます。彼を庭先に招き入れ話を聞きます。

百万住民の悲願であった松原・下筌ダムは、室原氏の永年にわたる執拗頑固な反対にもかかわらず、関係団体の協力で建設された。しかしその機能は発揮されていない。梅雨期を前にして、ここに百万住民の総意を結集して、室原氏の猛省を促す

砦に拠る 王国の章 445pより

いちち
小説を読んでいてこんなにガッカリしたのは初めてだった。室原和幸、建設省が後腐れなく和解出来る唯一のチャンスが消えてしまった。

 

1970年(昭和45年)6月29日の朝。室原和幸は亡くなります。

小説に彼の死について詳しく語られています。

13年に亘る壮絶な戦い『蜂の巣城紛争』はこうして幕を閉じました。

 

終わりに

以上が『法にかない、理にかない、情にかなう』という確固とした信念をもって戦った室原和幸の蜂の巣城紛争でした。

いちち
こんなにもワクワクして最後にガッカリした物語はありません。

砦に拠るは名作です。ここでは書ききれなかった法律上の戦いや細かい心理描写が小説にはわかりやすく丁寧に記されています。もし、少しでも興味を持たれた方は一度読んでみることを強くおすすめします。

 

おしまい!



下筌ダム

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いちちと申します。 休日の殆どを一人旅に費やしています。いつか流浪の民になって日本中を周って過ごしたい。歴史、B級スポット、心霊スポットのネタが多めな旅行記ブログです。 コメント待ってるよー!