たった7年で壊された岩国城と吉川広家について【山口の旅】

岩国城は江戸時代初期(1608年)に築城された城。城は標高約200mの山に築城され、その麓には城を囲うように錦川が流れ天然の要塞になっています。築城者&城主は毛利家臣の吉川広家という人物です。今回は1962年(昭和37年)に復元された岩国城の様子と関ヶ原の戦い以後の吉川広家について見ていくことにしましょう。

それでは参ります!

 

岩国城の場所

山陽自動車道の岩国ICを下りて右折し国道2号線を道なり進むと青看板に『錦帯橋』とあります。それに従って右折すれば到着します。駐車場(上の写真)は錦帯橋直ぐ近くの川岸にあります。小石が多い駐車場なので車高が低い車は危険かもしれません。混雑時は駐車料金が発生するとのことです。

にっぽん旅行記 錦帯橋についてより

岩国城は錦帯橋を渡った先にあるロープウェイから行くことが出来ます。

錦帯橋のチケット売り場で橋、ロープウェイ、岩国城のセット券が『大人:940円 小学生以下:450円』で売っています。

 

関ヶ原の戦いと吉川広家

岩国城1600年の関ヶ原の戦いで吉川広家は複雑な立場に置かれていました。主家の毛利輝元が西軍の総大将だったにもかかわらず広家は徳川家康(東軍)が勝つと予想して早くから家康に内通していました。

宰相殿の空弁当という有名な故事があります。

これは西軍を裏切っていた広家が毛利軍の邪魔をして進軍停止させたことを背後の長宗我部盛親が訝しく思い出陣要請したときに生まれた故事。毛利軍を率いていた内の一人、毛利秀元が盛親の出陣要請に対してした言い訳が『今、兵士に弁当食べさせているから出陣出来ないっス!』というものでした。

結局、毛利氏は動くことなく東軍に寝返った小早川秀秋(この人物も毛利氏と関係がある。)によって西軍は敗走してしまいます。

吉川広家は1561年に吉川元春(毛利元就の息子)の三男として生まれました。元春が隠居すると長男の元長が吉川氏を継ぎますが元長はその後すぐに亡くなってしまいます。次男の毛利元氏は仁保氏の婿養子に入っていたため広家が吉川氏を継ぐことになりました。

 

岩国城勝者の徳川家康は当初、毛利氏を改易にする予定でしたが、広家が家康を説得し減封こそされてしまいますが家名を存続させることに成功します。

そして吉川広家は毛利氏から岩国領を与えられ治めることになります。ところが岩国は藩として認められませんでした。これは関ヶ原の戦いで広家が裏切ったことに毛利氏内部が良く思っていなかったことが原因だと思われます。

いちち
一応は毛利の名を存続させたから蔑ろにはできないな…。でもなんかムカつくから藩主にはしない!
みたいな感じかな?

 

岩国城吉川広家のことを特に毛嫌いしていたのは関ヶ原の戦いで邪魔をされた毛利秀元です。

毛利秀元は1579年に穂井田元清(毛利元就の息子)の次男として生まれました。毛利姓を名乗っている理由は毛利輝元の養子に入ったからです。これは輝元になかなか子供が出来なかったためです。(後に子を授かっています。)

吉川広家は関ヶ原の戦いのこともあり表向き政治に参加しなかったようですが、毛利秀元と共に長州藩(毛利氏)の政治を任されていた福原広俊とタッグを組み裏で動いていました。

 

大坂の陣と吉川広家

岩国城1614年~1615年に起きた大阪の陣(豊臣vs徳川)で毛利氏は徳川幕府に味方します。しかし佐野道可事件という問題が起こってしまいます。この事件は毛利氏と血縁関係にあった佐野道可(内藤元盛)が大阪城に籠城して豊臣勢と徳川氏に反抗したことから始まります。

幕府は毛利氏の謀反を疑い調査しますが、福原広俊らの活躍により潔白を証明することが出来ました。事件の真相はわかりませんが『佐野道可が勝手に豊臣氏に味方した説』や『毛利輝元、当主の秀就、家臣筆頭の秀元が佐野道可を暗躍させた説』などあります。

いずれにせよ関ヶ原の戦いに続き毛利氏は存続危機に陥りますが何とか助かります。そして1614年に吉川広家は隠居し息子の広正に家督を譲ります。

 

岩国城隠居したものの跡継ぎの広正はまだ元服したばかりで若かったため岩国領の実権は広家が握り続けました。そして1615年、幕府から一国一城令が出され岩国城は取り壊されてしまいます。築城された年が1608年なのでたった7年で廃城になってしまいました。

そして1625年、吉川広家はその生涯を閉じます。

 

終わりに

岩国城歴史に『もしも』はありませんが、吉川広家が毛利秀元に”お弁当を食べさせなかったら”徳川家康の天下はなかったかもしれません。或いは毛利氏が無くなってしまったかも。毛利氏が消えれば後の長州藩は存在しないことになるので明治維新が起きませんね。まぁ、代わりの誰かが似たようなことをやってのけたかもしれませんが。

いちち
写真は復元された岩国城天守から見る錦帯橋です。素晴しい景色ですね~。

訪問して感じましたが岩国城は明らかに戦闘用に造られた山城なんですよね。築城は江戸時代に入ってからなので戦国時代から比べれば戦の数は減り平和になっているはずですが、吉川広家は油断大敵とここを選んで城を造ったのでしょう。

彼の仮想敵は徳川幕府だったのか?政敵の毛利秀元?或いは戦国の世は再び訪れる思っていたのでしょうか?

おしまい!



岩国城

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いちちと申します。 休日の殆どを一人旅に費やしています。いつか流浪の民になって日本中を周って過ごしたい。歴史、B級スポット、心霊スポットのネタが多めな旅行記ブログです。 コメント待ってるよー!