上杉謙信の居城、春日山城とお家騒動の御館の乱について【新潟の旅】

春日山城春日山城は標高189mの春日山の頂上に築かれた難攻不落の山城です。

築城時期は南北朝時代(1336年~1392年)で越後府中の館の詰め城として造られました。

 

春日山城写真ではいまいちわかりづらいですが、この写真の真ん中上部の木がない部分に城が建っていました。

ここは冬になると大雪が降りまず攻めることはできません。まぁ、守る側も身動きがとれなくなってしまうのですが…。

 

春日山城

 

春日山城三の丸跡。

ここには北条氏康の息子で後に上杉謙信の養子になった上杉(三郎)景虎が住んでいました。御館の乱で上杉景勝と争ったことで有名です。この事件については後述します。

 

春日山城二の丸跡。

本丸を帯状に囲う帯曲輪の形をとっていたそうです。防衛上、生活上とても重要な場所でありました。

 

春日山城本丸跡。

 

春日山城毘沙門堂跡。

ここで上杉謙信は戦勝祈願をしたようです。毘沙門天の起源はインド神話の財宝神クーベラ。後に仏教に吸収され中国、日本に伝わり勝負事の神様として崇められるようになりました。また馬の神様、北方を守る神様といわれ上杉謙信と合致することが多いです。

 

春日山城

 

春日山城護摩堂跡。

護摩はサンスクリット語でホーマといい「燃やす」という意味。護摩行という修行があります。護摩壇を用意して護摩木をひたすら燃やし続けるというもの。諏訪堂跡の詳細はわかりませんでした。ここで上杉謙信は息災、戦勝を祈願してと伝わっています。

 

春日山城謎のお花畑。

 

春日山城上杉家臣で有名な直江さんが住んでいたところ。 

他にも上杉景勝、柿崎景家、甘粕景持の住居跡があったのですが、見ての通り雨がものすごく降っていたので撮れずに終わってしまいました。

 

御館の乱

春日山城最後に御館の乱について。

御館は関東から追われて上杉謙信に頼った関東管領の上杉憲政が住んでいた場所です。現在は公園になっています。(春日山城とは別の場所にあります。)

御館の乱は1578年に上杉謙信が亡くなった後に起きたお家騒動のこと。上杉謙信には子供がいなかったので養子をとりました。上杉謙信の養子である長尾政景の次男「上杉景勝」と北条氏康の七男「上杉景虎」がこの戦いの主役です。上杉謙信がどちらを後継者にするかを決めていなかったようでこのような事件に発展しました。

上杉景勝は上杉謙信が死亡するとすぐに春日山城の本丸を抑え、武器や金品を確保し内外に自分が上杉謙信の後継者と宣言する。そして三の丸の上杉景虎に攻撃を仕掛けました。

城内、城外で戦闘が起き上杉景虎が春日山城から退去し御館に立てこもります。上杉景虎の兄にあたる後北条氏当主「北条氏政」は弟のピンチを救うべく武田勝頼に援軍を依頼し、後北条氏も越後へ軍を進めました。

ところが金にものをいわせて上杉景勝は武田勝頼を懐柔します。武田軍は越後に軍をおき中立の立場から景勝、景虎の調停を試み成功。同時期に徳川家康が武田領に攻めてくると武田氏は上杉氏に構っている余裕がなくなり兵を少しだけ残し退却。一旦和平したものの武田氏がいなくなると再び険悪に。

その後、後北条氏の軍勢が上杉景勝を攻めるが、景勝勢はよく守りました。外部勢力をうまく取り入れ味方を増やした景勝は雪が降り後北条氏の勢いがなくなると御館に一斉攻撃を仕掛けます。

関東管領で上杉謙信の養父である上杉憲政が景虎の息子を連れて和議交渉しようと試みるが道中で二人とも切り捨てられる。そして御館は落城します。景虎はなんとか脱出しますが迎え入れてくれるはずの味方が謀反し行き場の無くなった景虎は自害してしまいます。上杉景虎の死後に景虎に味方した人間を粛正し御館の乱は幕を閉じました。

結果的に御館の乱は上杉家の国力を著しく低下させ景勝は非情に苦しい立場になりました。

おしまい!



春日山城

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


ABOUTこの記事をかいた人

いちちと申します。
休日の殆どを一人旅に費やしています。いつか流浪の民になって日本中を周って過ごしたい。歴史、B級スポット、心霊スポットのネタが多めな旅行記ブログです。

コメント待ってるよー!