角牟礼城に登って来たので景色とともに歴史を紹介しようと思う【大分の旅】

角牟礼城大分県内陸に位置する玖珠町の角埋山に築かれた角牟礼城。

いちち
難しい漢字ですね。『つのむれ』と読みます。

今回は角牟礼城跡へ行ってきました。標高577mの角埋山頂上付近に築城された城なので本丸まで登るのに大変苦労しました。でも本丸付近から眺める景色は美しく澄み渡り、空気が美味しく、登って来た疲れを忘れさせるような爽快さを味わえます。

さて、角牟礼城の風景とその歴史を見ていくことにしましょう。

 

角牟礼城への場所

角牟礼城最寄りの高速出口は玖珠ICです。IC出口の信号を右折して国道387号線に入り、5分程走ると旧久留島氏庭園、久留島武彦記念館があります。角牟礼城はその近くにあります。少しややこしい場所にあるのでgoogle mapで『角牟礼城跡』と検索して向かった方がよいです。

 

角牟礼城の歴史

角牟礼城築城年や築城者は不明。現地の案内板によると下記のように記されています。

一一二二 保安 三

十一月十九日の『清原氏所領配分状』(大友文書)に『角牟礼鐘突堂』とあり、これ以前に山岳宗教の堂宇がここにあったと思われる。

角牟礼城跡 案内板より

この頃にまだ角牟礼城は無かったのでしょう。ただ清原氏がこの辺りを治めていたんだろうなということはわかります。豊後清原氏の祖は平安時代後期に生きた清原正高だと云われています。豊後清原氏は天武天皇の皇子・舎人親王の子孫だという説があるようです。この説が本当だとするとかの有名な清少納言と血の繋がりがあるということになります。

いちち
大友文書という言葉が気になりました。1122年ですと豊後大友氏の初代・能直がまだ生まれていません。後に清原氏は大友氏の家臣になっているのでその関係で豊後大友氏成立前の文書が大友文書として残っているのかな?

 

角牟礼城

一一五五 久寿 二

このころ源為朝が築城したと伝えられる。

角牟礼城跡 案内板より

源為朝は源頼朝や源義経の叔父に当たる人物です。若かりし頃に父の源為義に勘当され九州へ流されました。豊後国(大分)に住み、そこで暴れまわります。その結果3年で九州を支配するほどの力を手に入れました。その後、本土に戻され保元の乱で活躍しています。(敗北したけど…。)

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↑でも少し源為朝に触れていますので気になる方は見てください。

江戸時代に書かれた豊後国志という大分県の歴史を知るうえで大変重要な書物にこのことが記載されています。

久壽中。源公子爲朝築城據之。

豊後国志 巻之七 角埋山より

『久寿(年号)、源為朝が城を築きこれに拠った。』という意味でしょう。ただこれを鵜呑みにしてはいけない気がします。源為朝は実在した人物ですが、彼についての逸話は伝説の域をでない話ばかりです。これも恐らく伝説なのではないかと疑っています。

 

角牟礼城

一二七八~一二八七 弘安年間

このころ森三郎朝通が、ここに居城したという。

角牟礼城跡 案内板より

と案内板にはあります。

弘安中。森三郎淸原朝通居焉。

豊後国志 巻之七 森營より

どうやら森氏は清原氏の流れを汲む家系のようです。築城者を森朝通だとする説もあります。森氏や同族の帆足氏などは玖珠郡衆と呼ばれ豊後大友氏の配下となりこの一帯を治めました。

 

角牟礼城

角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明七年(一四七五)の志賀親家文書である。

角牟礼城跡 案内板より

1475年より前に角牟礼城があったことがわかる史料の登場です。

いちち
これまでの源為朝や森三郎朝通はなんだったんだろうって感じです。まぁ、口伝や信憑性が低い史料も真実じゃないかもしれないけれど歴史の一つですからね。

志賀親家文書の原文は調べてみましたが発見できませんでした。

 

角牟礼城

一五八六 天正十四

十二月、大友氏攻略の島津軍約六千人が玖珠郡に攻め入る。

一五八七 天正十五

一月~三月、角牟礼城攻撃。籠城の森五郎左衛門をはじめ古後、太田氏等約千人、島津軍数度の猛攻に屈せず、これを撃退する。

これは戦国時代末期に行われた豊後国の大友氏と薩摩国の島津氏の戦い『豊薩合戦』のことです。この合戦の結末は豊臣秀吉に助けを求めた大友氏の勝利です。しかし大友氏は殆どぼろ負けでぎりぎりのところで秀吉の援軍が来たためどうにか勝てたという状態でした。

多くの城を島津軍に攻め取られましたが、角牟礼城は落城せず持ちこたえたとのことです。

 

角牟礼城豊後大友氏最後の当主・大友義統は文禄の役(朝鮮出兵)で失態を犯します。これを知った豊臣秀吉は大激怒し義統を改易させます。こうして豊後国が秀吉の直轄地になってしまったため、角牟礼城を居城にしていた森氏は城を受け渡すしかありませんでした。1593年のことでした。

1595年に日田・玖珠郡に入って来た秀吉の家臣・毛利高政。彼は6年かけて角牟礼城を本格的に改修しました。

関ヶ原の戦いが終わり徳川の世が始まろうとしている1601年。水軍で有名な来島氏(久留島氏)が玖珠に入封、森藩が立藩されます。その際、角牟礼城は廃城になりました。

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終わりに

たくさん撮った写真を載せないのはなんだか勿体無いので最後に紹介して終わります。

 

角牟礼城多分、角埋神社。

 

角牟礼城針の耳。善人だけが通れるトンネルだそうです。悪人が通ったらどうなるのでしょうか?

 

角牟礼城石垣の上にある祠。詳細は不明です。

 

角牟礼城

 

角牟礼城苔生した風景。何か神聖な生き物とばったり出会いそうな感じ。

 

角牟礼城

 

角牟礼城

 

角牟礼城焼不動。

角牟礼城と所縁があるとされる源為朝に関する不動明王。為朝の死後、彼を偲び作られたそう。豊薩合戦でお堂が焼失し不動明王の首だけ残ったと伝えられています。

おしまい!



角牟礼城

2 件のコメント

  • 凄い山の中って感じました。
    >標高577mの角埋山頂上付近
    お城のイメージって、出勤して執務を行うトコって感じますが、
    この場所だと、毎日そんなことしていると大変そうで、
    合戦時に籠るのかなぁ~なんて思いました。
    それにしても、水はともかく、食料は運び上げなきゃですよね。

    • 上総さん

      山城は守るための城ですよね!
      毎日のように行き来していた人もいたと思います。身分の低い人でしょうが…。

      登ってみると当時の人はどれだけ苦労したのかわかります。
      その分足腰が強かったんでしょうね。

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