実父に高橋紹運、養父に立花道雪をもつ名将・立花宗茂の居城、柳川城へ【福岡の旅】

柳川城柳川城は1558年から1569年の間に蒲池鑑盛が本格的な城郭として整備したと伝わっています。

城内や城下町に水堀を張り巡らし難攻不落の要害を作り上げました。その水堀は現在の柳川市の至る所に残っており柳川観光名物の川下り船が流れています。

今回は柳川城の様子と歴史を紹介します。

 

柳川城の場所

現在の柳川城跡は柳川市立柳城中学校の隅にある小高い丘の上にあります。駐車場はありませんので近くの立花家史料館の周辺にあるパーキングに停めて歩いて行きましょう。時間があれば立花家史料館と北原白秋記念館にも寄りたいところです。

 

柳川城の歴史

柳川城柳川城を整備した蒲池鑑盛は豊後大友氏に仕えた忠義の将でした。跡を継いだ鎮漣は大友氏から離反し龍造寺隆信に従います。ところが次第に隆信と険悪になってしまいます。

とうとう柳川城は龍造寺氏に攻め込まれてしまいますがここは難攻不落の名城。強烈な攻撃を耐え抜くことに成功します。しかし蒲池鎮漣は龍造寺氏の計略にかかり城外で謀殺されてしまいます。

蒲池鑑盛は大友氏が衰退のきっかけを作った耳川の合戦で戦死しています。鎮漣は父とこの戦いに参加するも途中で柳川城に引き返しています。

 

柳川城柳川城をせしめた龍造寺氏は家臣の鍋島直茂や龍造寺家晴を城主としました。大友氏は重要な拠点であったこの城を奪うため重臣の戸次鑑連(立花道雪)高橋紹運を派兵するも遂に落とすことが出来ませんでした。その後、豊臣秀吉による九州平定で活躍した立花宗茂に柳川城が与えられます。

いちち
立花宗茂は高橋紹運の長男で戸次鑑連の養子です。戦で取れなかったものの結果オーライといったところでしょうか。

 

柳川城関ヶ原の戦いで西軍の味方をした立花宗茂は柳川城主を解任され浪人になってしまいます。

いちち
立花宗茂については立花家史料館の記事に詳細を載せようと思います。

代わりに柳川に移封してきたのは田中吉政という武将です。彼は関ヶ原の戦いで石田三成の居城・佐和山城を落城させ、更に伊吹山で三成を捕縛します。この活躍が認められ筑後国32万石が与えられました。

田中吉政は城下の水路や街道の整備を行い柳川を近代化させた人物です。息子の田中忠政に跡取りがいなかったため断絶、改易になってしまいます。

 

柳川城田中氏改易後、柳川に入って来たのが立花宗茂です。関ヶ原の戦いでの敗北で改易になって大名に返り咲いた武将は数人いますが、旧領に戻ってこれたのは彼が唯一だそうです。

以来、柳川は明治維新までの約250年間立花氏が治めました。

 

柳川城1872年(明治5年)、天守閣が焼失してしまいます。

1874年(明治7年)、海岸堤防の補強に柳川城の石垣が使われています。

1923年(昭和3年)、柳川高校と柳城中学校が建立され現在に至ります。

柳川城の歴史については以上です。

 

終わりに

柳川城柳川城天守閣再現プロジェクトだそうです。

いちち
期間限定らしいよ。

おしまい!



柳川城

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