佐賀藩の祖・鍋島直茂の軌跡。胞衣塚と高伝寺の墓所を訪れて【佐賀の旅】

佐賀市にある鍋島直茂の生誕地と墓に行ってきました。

鍋島直茂は1538年に肥前国佐嘉郡の本庄館で生まれました。戦国大名の龍造寺氏に従い武功を重ね、主君の龍造寺隆信が戦死したあとは家老として龍造寺氏を主導しています。その後、豊臣秀吉や徳川家康の下で大いに活躍し佐賀藩の藩祖になります。

1618年に病死。享年81。

いちち
鍋島氏といえば『化け猫騒動』が有名ですね。どういう経緯で『化け猫騒動』が起きたのか?もう少しだけ彼について見ていくことにしましょう。

鍋島直茂の主君だった龍造寺隆信については↓

肥前の熊こと龍造寺隆信の生誕地と高伝寺境内の墓に行く!【佐賀の旅】

2018.04.04

 

鍋島直茂の誕生

鍋島直茂について鍋島直茂は鍋島清房と龍造寺家純の娘の間に誕生しました。

龍造寺家純は龍造寺隆信の祖父でもあるので直茂と隆信は従兄弟の関係です。また直茂の父と隆信の母が後に結婚しているので義兄弟の間柄でもありました。二人は固い絆で結ばれていたといえます。直茂はとても優秀な武将でしたので隆信の右腕として大いに活躍しました。

写真は鍋島直茂の胞衣塚です。直茂はここで生まれたとされています。

 

鍋島直茂について1569年、豊後大友氏が大軍を引き連れて肥前へ侵攻してきたとき龍造寺氏は佐嘉城に籠城しています。この合戦を『今山の戦い』といいます。龍造寺氏が圧倒的に不利な戦争でしたが、和睦で終わっています。

この戦いで鍋島直茂は夜襲を進言し実行に移しています。直茂は夜襲隊を率い大友宗麟の弟・親貞が率いる隊に奇襲攻撃を仕掛け親貞を討ち取り大打撃を与えています。

直茂の夜襲が直接的な要因ではないと思いますが、大友氏は佐嘉城を攻めきれず和睦を受け入れ撤退しました。

 

沖田畷の戦いと鍋島直茂

鍋島直茂について1584年、長崎・島原半島で『龍造寺隆信vs島津家久、有馬晴信』の争いが勃発します。これを沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)といいます。

兵力は龍造寺軍に分がありましたが、島津軍の誘い込みに引っかかり龍造寺軍は壊滅、しかも龍造寺隆信が敗死してしまいます。

北肥戦誌によると鍋島直茂は隆信の息子である龍造寺政家の副将として参陣しています。隆信の死を知ったときの二人の反応が書かれているので引用します。

政家は父隆信の戦死を聞かれ、生きては爭か歸るべきと、數度引返されしを、水町彌太右衛門・犬塚新四郎其外數輩立塞がり、無體に引立て退きけり。信生も討ち死にすべしと、六七度に及び取つて返されけるを、中野式部少輔、信生の鎧の袖にすがりて三會の方へ引退く。

国史叢書 北肥戰誌 二 卷之廿八 三〇二、三〇三より

信生が鍋島直茂のことです。

沖田畷の戦い後、龍造寺氏は島津氏に恭順し大友攻めに参加しています。

 

豊臣政権での鍋島直茂

鍋島直茂について豊臣秀吉による九州平定(1586年から1587年)で龍造寺氏は島津氏と手を切り秀吉の味方をしています。同じく秀吉に従った豊後大友氏の立花宗茂らと共に島津氏を追い詰めています。

この頃から鍋島直茂が主権者となり龍造寺氏をまとめていくことになります。これは直茂がそうしたかったからではなく、そうせざるを得ない状況にあったからです。隆信亡き後の龍造寺氏内外の混乱を抑え込める人物は直茂しかいなかったということでしょう。

龍造寺政家は病弱を理由に35歳で隠居。5歳の龍造寺高房がそのあとを継ぎ、政は直茂に委ねられることになります。また豊臣秀吉は『鍋島加賀守直茂が国事を勤べきと由』と命令しています。

いちち
秀吉としては新しい土地を統治するために自分が認めた人間を配置した方が何かとやり易いですからね。

鍋島直茂について1592年の文禄の役(朝鮮の役)で直茂は約12000名の龍造寺軍を率いて渡朝しています。これの指揮も彼が取っています。慶長の役(1597年)の前には龍造寺一族が直茂の息子・勝茂に忠誠を誓う起請文を出しています。このことから龍造寺氏の中における鍋島氏の力はかなり強いものになっていたことが窺えます。

一見すると順調ですが問題がなかったわけではありません。

龍造寺政家はこのまま完全に龍造寺が直茂に乗っ取られてしまうのではないか不安に思い始めます。家中でも直茂が政家を毒殺しようとしている噂が流れ、直茂がそれを否定しています。彼の龍造寺氏に対する忠誠は間違いないものだったでしょうが、誰がどう見ても鍋島直茂こそ主として相応しいという流れになっていました。

 

鍋島直茂の実権と苦悩

鍋島直茂について1600年の関ヶ原の戦いでは初め西軍の味方をしましたが、後に東軍の将となり久留米城や立花宗茂の柳川城を攻め降伏開城させています。その活躍から西軍に付いた事は許され所領は安堵されています。

1607年に事件が起こります。龍造寺氏の家督を継いだ高房が妻(直茂の養女)を殺害し自身も自殺を図ります。

ここに来てこれまでの鬱憤が炸裂します。直茂は『おうらみ状』と呼ばれる書簡を龍造寺政家に送りつけます。

いちち
『隆信様が亡くなったあと龍造寺の今後をどうしようと嘆く人はいたけど、誰一人としてどうするべきかいう人がいなかった。』から始まり『今回の高房様の切腹は誰に対する当てつけですか?話し合いましょう。』みたいな感じで終わる手紙です。

高房は佐賀に戻ることなく亡くなります。そして追うように政家も亡くなってしまいました。

 

鍋島直茂の死

鍋島直茂について政家、高房がいなくなった龍造寺氏の実権は完全に鍋島直茂、勝茂親子に移りました。

江戸幕府にも龍造寺領の統治が認められ鍋島勝茂が初代佐賀藩主となります。

いちち
鍋島直茂は龍造寺氏や家臣らに気を使ってなのか藩主にはなっていません。現在では佐賀藩の藩祖とされています。

龍造寺の重臣らはかつての主君・龍造寺隆信の戦死以降、朝鮮の役や関ヶ原の戦い、その他諸々の苦難を乗り越え龍造寺氏を存続させた直茂、勝茂親子の実力を認め忠誠を誓いました。龍造寺一族は鍋島氏の支配の下、名前を変えて佐賀藩内に散らばり地域を支配しました。

鍋島直茂は1618年に病死します。享年81です。この時代ではかなり長命ですね。

終わりに

鍋島直茂について最後に鍋島化け猫騒動についてお話して終わりにします。

佐賀の鍋島の御殿様が囲碁を打っているときカッとなって相手を殺してしまいました。殺された人の名前を龍造寺といいます。その死は隠されましたが龍造寺の母がそのことを知り、飼っていた猫に恨みを果たしてもらうよう自身の血を舐めさせ亡くなります。猫は化け猫になり鍋島の御殿様に近づき苦しみを与えます。御殿様の家臣たちが化け猫の正体を暴き退治して終わります。

ざっくりですがこんな感じです。

『鍋島氏に国や家を乗っ取られた龍造寺氏の恨みがこの物語のきっかけ。』といいたいのでしょうか?

まぁ、実際に高房の死は鍋島氏に対する当てつけみたいなものですし、高房の庶子である龍造寺季明は龍造寺の再興を幕府に訴えていますが認められていません。でも龍造寺の一族殆どみんな直茂、勝茂こそ主君に相応しいと忠誠を誓っているはずなんですけどね。

ごく一部に恨みを買ったのかもしれませんが、鍋島直茂からしたら『お前らの祖父や父が率先して家を引っ張らなかったからこうなったんだろう?』といいたくなるでしょう。

いちち
鍋島直茂も龍造寺の血を引いているんだから龍造寺隆信の跡を継いでも何にも問題ないじゃん。って現代人の私は思いますが、そういう問題ではないんだろうな。

化け猫騒動については直茂のことを調べれば調べるほど彼が不憫になります。

おしまい!



鍋島直茂について

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