江藤新平と生誕地と墓へ参拝。彼の人生と佐賀の乱について紹介しようと思う【佐賀の旅】

江藤新平の生誕地と墓に行ってきました。

江藤新平は幕末から明治初期に活躍した佐賀県出身の政治家です。佐賀藩の七名の偉人『佐賀の七賢人』、明治政府に貢献した『維新の十傑』の一人に選ばれています。

征韓論を巡る政争の結果起きたとされる明治六年政変で下野。

その後、佐賀県に帰省し佐賀の乱のリーダーの一人として新政府軍と戦います。戦いは新政府軍の勝利に終わり江藤新平は捕縛され獄門に処されてしまいます。

佐賀の乱は『乱』ではなく『役や戦争』と表記すべきという意見があります。当記事では一般的に知られている『乱』で統一しました。
江藤新平で画像検索するとさらし首にされた彼の写真が出てきます。ショッキングな画像に抵抗がある方は注意が必要です。

それでは、もう少し詳しく江藤新平の人生と佐賀の乱について紹介します。

 

江藤新平の誕生

江藤新平について

江藤新平は1834年3月に佐賀藩士の長男として佐賀郡八戸村(やえむら)で生まれました。

上の写真の場所が生誕地です。

説明板があるだけで当時の建物は残っていません。また住居の範囲もわかっていません。質素な屋敷だったのだろうと考えられています。

駐車場はないので近くに路上駐車して見に行きました。道の狭い住宅街にあるので大きい自動車で直接は行けません。

 

若かりし頃の江藤新平

江藤新平について

藩校の弘道館に入学し優秀な成績を治めましたが、家計が困窮していたため進学せずに弘道館で教授をしていた枝吉神陽の私塾に通います。

この枝吉神陽という人物が江藤新平や大隈重信などの明治維新に活躍する偉人を育て上げました。彼の思想は尊皇討幕です。天皇が日本の中心にあるべきだとし、本来天皇の家臣であった武家が日本を支配していることを批判しました。

写真は徴古館。弘道館跡地です。江藤新平の生誕地とは別の場所にあります。

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脱藩

江藤新平は1862年(29歳のとき)に脱藩し京都で活動します。長州藩の木戸孝允(桂小五郎)や公家の姉小路公知と知り合っています。この脱藩で視野が広がり、明治維新に繋がる出会いを得ることができました。

脱藩の基本的に死刑ですが藩によって罰の軽重があったようです。ちなみに佐賀藩は死刑(切腹)。

2か月ほどで帰藩。もちろん罪を問われます。死罪にすべきという声もあったそうです。

しかし聡明な藩主・鍋島直正は江藤新平が今後必要になる人物だと判断し無期謹慎に罪を軽減しました。1867年の大政奉還、1868年の王政復古の大号令で江戸幕府が終わり新政府が確立されます。この頃にはすでに謹慎が解かれ藩命で京都に向かうなどしています。

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東征大総督府の軍監に任命

江藤新平について

1868年に京都で起こった新政府軍vs旧幕府軍の争い『鳥羽・伏見の戦い』で佐賀藩は対応に遅れたため新政府の一部から『佐賀も討伐戊すべし!』と声が上がってしまいます。

江藤新平は新政府に佐賀に敵意はない旨を伝えて誤解を解いています。

同年、戊辰戦争では東征大総督府の軍監に任じられ江戸の偵察を命じられます。西郷隆盛と勝海舟による会談で江戸城が開城すると江藤は旧幕府の文書類を接収。

諸国の絵図、藩や村の石高帳、租税に関する帳簿、刑法の書類を取り纏めました。

 

東京奠都の功

東京奠都の問題では大木喬任と共に佐賀藩論として東西両京設置を主張し新政府に受け入れられます。東京奠都は『奠都は新たに都を定めること』の意です。この場合は東西両京なので京都と東京の両方が都になります。

始めは大阪に奠都する計画が進んでいましたが反対意見が多く最終的に江戸(東京)が選ばれています。明治天皇が『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』を発したことで江戸は東京と呼ばれるようになりました。

 

新政府と江藤新平

1872年に新しく司法省が設置されると司法卿(司法のTOP)に就任します。

翌年には参議として政治運営に関りを持つことになります。日本の近代化を進め、特に司法の整備に尽力しました。

 

征韓論について

江藤新平について

明治政府は朝鮮に新しい政府になったことと国交を結びたいと連絡しますが、今までと形式が違うと取り合ってもらえません。そのあとも使者を派遣しますが相手にしてもらえません。

更には挑発といえるような言葉を朝鮮の国王が発したため日本は征韓論の流れになっていきました。

征韓論とは極端にいうと武力で朝鮮を開国させようというものです。

政府はいきなり朝鮮に兵を送ったり戦争するのは正道ではないと判断し『まずは責任ある人物が朝鮮に赴き開国の説得をする』という意見でまとまり、その役に西郷隆盛が名乗りを上げます。

しかしこのとき政府中枢の数名が海外視察(岩倉使節団)にいっていたため帰りを待つことにします。

 

明治六年政変

江藤新平について

帰って来た岩倉使節団。岩倉具視や大久保利通は『西郷派遣』に反対します。

両者の間で論争が起きましたが最初は『西郷派遣』が採用されます。

しかし仕切っていた三条実美が倒れ、代理になった岩倉具視が採用されたはずの『西郷派遣』を捨てて自分の意見を明治天皇に伝えてしまいます。

結局それが受け入れられ西郷隆盛の朝鮮派遣は中止になってしまいます。

1873年(明治6年)。西郷隆盛、江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎らは新政府を辞職し下野してしまいます。これを明治六年政変といいます。

 

江藤新平と佐賀の乱

江藤新平について

明治六年政変で下野した江藤新平は同様に政府から立ち退いた板垣退助、後藤象二郎、副島種臣と手を取り合い愛国公党という政党を立ち上げ民撰議院設立建白書を提出しました。

民撰議院設立建白書はざっくりいうと『有司専制(一部の政治独占)をなくし天下の公議(国民の世論?)を拾い上げるため民撰議院(今でいう国会?)を設立する。』といった内容だと思います。ちょっと自信ないです…。

その頃、佐賀は征韓論を主張する反政府組織の征韓党、日本を封建主義に戻そうと考える憂国党が結成され不安定な状態にありました。そして憂国党が小野組(政治と癒着していた事業)に押し掛ける事件が発生します。

これが佐賀の乱の発端といってもいいでしょう。

この暴動を聞いた政府の大久保利通は佐賀を討伐すべしと陸軍省に通達しています。いよいよ佐賀がヤバいということで江藤新平は征韓党を説得するために佐賀に入ります。また佐賀の七賢人の一人・島義勇(北海道開拓で有名な人物)も佐賀士族の暴発を治めるため佐賀に向かいます。

島義勇は佐賀へ向かう途中で大久保利通に新しく佐賀県権令として任じられた岩村高俊に出会います。岩村は島の前で佐賀藩士を侮辱する発言をしたといいます。また岩村が兵を率いて佐賀城に入るという噂を聞き憤慨。佐賀に入ると江藤新平と会談し船中であったことを伝えます。

いちち
県令が軍を率いて佐賀に入ってくるってあり得なくない?政府は端から佐賀を攻撃するつもりか。という感じになったのでしょう。

こうして江藤新平は征韓党、島義勇は憂国党の党首として佐賀を守るため新政府と戦う決意をします。

1874年2月、佐賀の乱が始まります。

 

佐賀の乱の経過

江藤新平について

政府から鎮圧命令を受けた熊本鎮台が岩村高俊と佐賀に入ります。江藤新平らは岩村に『どういうつもりなのか?』問うため使者を送りますが岩村は『答える必要はない。』と返答。

敵意ありと判断した江藤・島率いる佐賀軍は佐賀城を襲い政府軍に大損害を与え城を奪うことに成功します。

大久保利通が東京から軍を率いて福岡に入り佐賀との境にある朝日山を突破しようと試みます。朝日山の戦いは兵数、物量に勝る政府軍が佐賀軍の猛攻にあいながら突破しています。そのあとは寒水川、田手川付近で両軍がぶつかり佐賀軍が敗退。田手川の戦いでは江藤新平が自ら指揮を執るも挟撃にあい敗北しています。

江藤は田手川の戦いの敗北を機に征韓党を解散し西郷隆盛に薩摩藩士の決起を促すよう鹿児島へ向かいますが、西郷に拒否されます。次は高知で林有造、片岡健吉に武装蜂起を説くが聞き入れてもらえません。その後、捕縛され佐賀へ連行されてしまいました。

佐賀の乱は佐賀城の北西にある境原(現在の神埼市千代田町境原)で激戦が行われ佐賀軍が敗北し佐賀城まで迫られ終結します。憂国党の党首・島義勇は脱出し鹿児島の島津久光に会いますが捕縛されてしまいます。

上の写真は乾享院にある佐賀の乱で戦死した107名の官軍の墓地です。

 

江藤新平、獄門に処される

江藤新平について

江藤新平は捕まったものの正式な裁判で戦ってやろうと考えていました。近代日本の司法の基礎を造った自負もあったのでしょう。しかし新政府は江藤を佐賀の地方裁判所に送り大した取り調べもせずに即日獄門の刑を下しました。島義勇も同じ判決が下されています。

1874年4月に斬首され首は嘉瀬刑場の千人塚という場所に晒されました。

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新政府は今後このようなことが起きないよう見せしめのため江藤新平や島義勇を梟首したのでしょう。しかし殆ど意味がなかったようで不平士族の反乱は西南戦争まで続くことになります。

 

終わりに

江藤新平はとても興味深い偉人です。

私は毛利敏彦さんの書籍を読みました。『江藤新平を贔屓しすぎているのでは?』といわれることもあるようですが、良書です。明治維新に興味がある方なら読んでおいた方がいいと思います。

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いちち
それにしても幕末・明治維新の歴史は複雑で難しいな。

おしまい!



江藤新平について

2 件のコメント

  • >幕末から明治の歴史は複雑でまとめるのが大変です。
    口角泡を飛ばす議論がたくさんあったのではと推察します。
    先端的な考えの、竜馬や西郷、そして、今回の江藤新平さんも志半ばという展開に、

    竜馬と同郷の後藤象二郎。西郷と同郷の大久保。
    きっと志半ばの意志に影響を受けて取捨選択して次のステップへつないでいったのではと思います。

    時代と登場人物が様々な決断(良い判断ばかりとは限らない。)をする中で、右往左往したのではと思います。
    幕末から明治にかけては、いろいろな心理、心の変化、さまざまな観点から考察できそうです。

    • 上総さん

      >いろいろな心理、心の変化
      まさにこれに尽きると思います。
      幕末、明治は割と近い時代なので『心情』が読みやすい気がします。
      それ以前の例えば南北朝時代や戦国時代はもっとシンプルに考えられます。(実際には複雑だったんだろうけど)

      あと近代はデリケートな問題がとても多いです。
      征韓論とかどう書いていいかそうとう悩みました。

      もっと新しい時代は更に書きにくくなります。

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