戦国時代に三好一族が守った讃岐国の十河城へ。鬼十河・一存の活躍と十河存保の最後【香川の旅】

十河城

高松市の南部に位置する十河城。城跡にある称念寺は十河城の主郭部分に当たります。

築城時期はわかっていませんが、城跡の案内板によると

南北朝時代からの十河氏の居城だった。

市史跡 十河城跡より

とあります。

 

十河氏について

十河城

十河氏の先祖は神櫛皇子だと伝わります。

神櫛皇子(かみくし)は第12代景行天皇の皇子です。

次妃五十河媛、生神櫛皇子・稻背入彥皇子、其兄神櫛皇子、是讚岐國造之始祖也、弟稻背入彥皇子、是播磨別之始祖也。

日本書紀 巻第七 景行天皇より

次の妃の五十河媛は神櫛皇子、稲背入彦皇子を産みました。兄の神櫛皇子は讃岐国の始祖です。弟の稲背入彦皇子は播磨別の祖です。

神櫛皇子の子孫が讃岐氏を名乗り、その庶流が植田氏、更に分かれ十河氏が誕生しました。

いちち
しかしながら景行天皇の実在は疑われています。ですので神櫛皇子が本当に存在したのかもよくわかりません。いずれにせよ十河氏は昔から讃岐を治めていた豪族の子孫であることは間違いようです。

 

鬼十河こと十河一存について

十河城

十河一存は1532年に三好元長の四男として生を受けました。兄に畿内の大大名・三好長慶がいます。

十河城主の十河存春(景滋)の跡継ぎが早く亡くなってしまったため一存は養子に入ります。

兄の長慶が頭角を現すとそれを補佐し各地で転戦。戦で大いに活躍したことから鬼十河の二つ名で呼ばれ対峙する敵をビビらせました。

しかし、鬼も病気には勝てず30歳の若さで命を落としてしまいます。

この死には暗殺の噂もあるようです。亡くなる間際に仲の悪かった松永久秀が近くにいたため殺されたという話です。

いちち
松永久秀は戦国三大梟雄の一人です。戦国時代のボンバーマンともあだ名されることがあります。私は何故かこの人物が好きです。(というか三大梟雄は全員魅力的)

いつか松永弾正が居城とした信貴山城に行きたいと思っています。

戦国三大梟雄

斎藤道三、松永久秀は確定。あとは北条早雲か宇喜多尚家のどちらかのようです。

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十河存保について

十河城

十河存保は1554年生まれです。父親は三好実休。実休は三好長慶の弟なので存保は十河一存の甥に当たります。

十河一存の嫡子・重存は三好宗家の跡継ぎ、弟の存之は庶子であったため跡継ぎにはなれませんでした。そのため十河存保が養子に入り十河氏を継いでいます。(1563年)

畿内の三好宗家が織田信長に滅ぼされてしまったため阿波、讃岐国から巻き返しを図る十河存保ですが、土佐国の大名・長宗我部元親が四国統一を目指すべく侵攻してきます。

長宗我部氏の四国統一を良しとしない織田信長は長宗我部元親に傘下に下るよう迫りますが拒否され敵対します。(1580年頃)

 

十河城

十河存保は織田信長に協力し打倒・長宗我部を掲げます。しかし本能寺の変で信長が自刃すると後ろ盾が無くなりピンチに…。

阿波国の勝瑞城にいた存保は中富川の戦い(1582年)で長宗我部軍に敗北し讃岐国に逃げ落ちます。同年中に長宗我部軍は十河城を攻めますが落城には至らず土佐国へ撤退。1584年、再び長宗我部軍来襲。十河城は落城してしまいます。

その後、四国を統一した長宗我部元親は豊臣秀吉と対立し敗北。このことを四国平定といいます。四国攻めに参加した十河存保は秀吉から再び十河の地を与えられます。

 

戸次川古戦場

十河存保は1586年の九州平定で仙石秀久、長宗我部元親・信親父子と共に薩摩の島津氏と戦います。

豊後国の戸次川沿岸で行われた戸次川の戦いで島津軍に惨敗し存保は戦死してしまいます。

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写真は大分県の戸次川古戦場にある石碑です。

十河存保には千松丸という跡継ぎはいたものの幼かったためか十河の領地は没収されてしまいます。

千松丸も若くして亡くなってしまったため十河城は廃城となります。※暗殺という説もあるらしい。

 

 

終わりに

十河城
いちち
上の石碑はどなたの歌なんだろうか?作者名に『存』の字があるので十河一族と関係のある方なのかな?

おしまい!

 



十河城

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