盛者必衰の…。細川・三好の両名家が治めた勝瑞城の歴史を振り返る【徳島の旅】

勝瑞城

阿波細川氏、畿内の覇者・三好長慶の一族が本拠とした勝瑞城。

かつてはここを中心として阿波国の政治や経済、文化などが成長し城下町が繁栄しました。

築城時期や築城者は定かではありませんが

十五世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移した…(後略)

国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より

とありますので、勝瑞は細川氏が移ったあたりから発展し始めたのでしょう。

細川氏が勝瑞城を築城したのか、それとも元々あった城に移り住んだのかは不明です。

 

阿波細川氏と勝瑞城

勝瑞城

細川氏は室町幕府を開いた足利氏の流れを汲む名家です。嫡流は細川京兆家と呼ばれ室町幕府の管領職に就きました。阿波細川氏はその分家で阿波国(徳島)を本拠としました。

管領は将軍の補佐をし政務を総括する職務です。

以下の引用文から勝瑞城が軍事的にも重要な拠点だったことがわかります。

応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。

国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より

いちち
細川氏まわりの歴史はもの凄くややこしいので詳細は時間があるときに調べてゆっくり纏めようと思います。

第34代室町幕府管領・細川晴元が重臣の三好氏に下剋上を起こされ、勝瑞城は三好氏の手に渡ります。

 

三好氏と勝瑞城

勝瑞城

三好氏は清和源氏から出た小笠原氏の一族です。

信濃の名門・小笠原氏と同族。1221年の承久の乱の後に阿波国守護に任命された小笠原氏が三好郡を拠点にし三好姓を名乗りました。

天文ノ比ヲヒ細川讃岐守持隆ト云人アリ同郡勝瑞ニ在城也是則阿波ノ屋形ト號ス其家臣ニ三好筑前守元長入道海雲ト云者アリ

三好記 一.細川讃岐守殿自害之事より抜粋

天文は1532年から1555年の時期です。

細川持隆が勝瑞城に在城、その家臣に三好元長がいたと書かれています。細川持隆は上で少し触れた管領・細川晴元の従兄弟にあたります。

 

彼男子四人アリ嫡子ハ三好修理大夫長慶二男ハ三好豊前守義賢三男ハ安宅摂津守冬康四男ハ十河左衛門正一存

三好記 一.細川讃岐守殿自害之事より抜粋

三好元長の四人の息子についての文。※五人いた説もあるようです。

・長男の三好長慶は後の畿内の大大名。

・二男の三好義賢(実休)については後述。子に三好長治や十河存保がいます。

・三男の安宅冬康は淡路水軍をまとめた人物。兄の長慶に殺害されてしまいます。

・四男の十河一存は鬼十河と呼ばれた猛将。

戦国時代に三好一族が守った讃岐国の十河城へ。鬼十河・一存の活躍と十河存保の最後【香川の旅】

2018.07.20

 

主を殺し実権を握ろうとする三好実休

勝瑞城

豊前義賢ヲ大将ニテ諸軍勢詰来リ龍音寺ノメグリヲ人数三千余騎ニテ取巻鮫浪ヲアクル讃岐守驚給ヒ御馬逈百余人ニテ馳出給ヒケレ共敵ハ多勢味方ハ無勢ナレバ難叶先見性寺ヘ御入有テ加勢ノ體ヲ見玉ヘ共何方ヨリモ御身方申来武士モナシ無力天文廿一壬子ノ年八月十九日ニ自害有テ法名徳雲院ト号ス

三好記 一.細川讃岐守殿自害之事より抜粋

三好義賢(実休)が3000人の兵で龍音寺にいる細川持隆を囲み、驚いた持隆は見性寺に逃げ込みますが援軍が来ることもなく天文21年8月19日に自害したという内容です。

三好記が信憑性のある史料であるのかは専門家でないのでわかりませんが、三好義賢(実休)が細川持隆を見性寺で討ち取ったことは間違いないようです。

その後、三好義賢(実休)は細川持隆の子・真之を擁立し傀儡化を狙いました。

しかし1562年の久米田の戦いで義賢(実休)は戦死してしまいます。

跡は義賢(実休)の息子・三好長治が継ぎました。

 

三好氏の没落

勝瑞城
1561年に三好四兄弟の末弟・十河一存の急死。

1562年、義賢(実休)の戦死。

1563年には三好長慶の嫡男・義興が夭逝。

1564年、三好長慶が弟の安宅冬康を殺害。その後、長慶も病死。

栄華を誇った三好氏は一気に没落してしまいます。

勝瑞城の城主は細川真之でしたが、義賢(実休)の跡を継いだ三好長治に牛耳られていました。

しかし長治には国を治める器がありませんでした。自分の思うがままに国を治め多くのものから反感を買い見限られてしまいます。

最後は1577年、細川真之が土佐国の長宗我部元親を頼り長治を討ち取ります。長治・享年25。

 

勝瑞城の最後

勝瑞城

天正一〇年(一伍八二)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。八月二八日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが九月二一日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。

国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より

三好長治が討ち死にしたあとは弟の十河存保が勝瑞城に入りました。

しかし長宗我部氏の攻撃から守り切れず勝瑞城は落城、そして廃城に。

この後、長宗我部氏は四国を統一しますが、直後に豊臣秀吉が四国を攻め入り長宗我部氏を打ち負かし降伏させます。

そして豊臣秀吉による九州平定で十河存保と長宗我部元親・信親親子は仙石秀久を主将とした隊に配属されますが…。

結果は↓

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終わりに

勝瑞城

以上が勝瑞城の歴史でした。

豊臣政権時に蜂須賀氏が阿波国に入封。徳島城を築城。阿波の中心地は勝瑞から徳島城下に移っていくことになります。

写真のお寺は三好氏の菩提寺・見性寺。

境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。

国指定史跡 勝瑞城館跡 案内板より

恐らく写真の墓石群の内のどれかが彼らのお墓なのでしょう。

いちち
もっとしっかり見ておけばよかったと後悔しています。

おしまい!



勝瑞城

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