佐賀城の風景を眺める。幕末の名君・鍋島直正公についてざっくり紹介します【佐賀の旅】

 

佐賀城

室町時代後期、肥前国佐賀郡は少弐氏から下剋上を果たした龍造寺氏が治めていました。

当主の龍造寺隆信が1584年に起きた沖田畷の戦いで戦死すると重臣の鍋島直茂が中心となって龍造寺を支えます。

この後に龍造寺氏の力が衰え、鍋島氏が実権を握るようになります。

詳細については↓をご覧ください。

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2018.04.07

江戸時代に入ると龍造寺氏が居城にしていた村中城を鍋島直茂・勝茂父子が改修、拡大します。

これが佐賀城の始まりです。

 

佐賀城

創建当時の様子が紹介されています。

いちち
土塁や堀はしっかりしていますが、堅城ではなさそう。

 

佐賀城

右側の出っ張っている石垣が天守台跡です。

ここに五層の天守閣がありました。

 

佐賀城

天守台跡にある石碑です。

草書で『佐賀城天守〇址』と刻まれています。

いちち
〇の部分は読めませんでした。『台』か『閣』はたまた『台』の旧字『臺』なのか?

 

佐賀城

天守台跡から眺める佐賀城本丸歴史館。

桜がキレイですね。

 

佐賀城

佐賀城本丸歴史館は10代目佐賀藩主の鍋島直正が再建した本丸御殿の一部を復元したものです。

歴史館内部では佐賀藩の歴史(特に幕末から明治初期に掛けての)を学べます。

 

鍋島直正公の功績について

佐賀城

鍋島直正の像です。

この方は写真も残っています。検索したら出てきます。

では彼の功績を簡単に紹介します。

・ボロボロだった佐賀藩の財政状況を好転させた。

・不治の病だった天然痘の根絶に協力。

・藩校・弘道館を充実させ藩内に優秀な人材を取り入れた。

・西洋の技術を積極的に取り入れた。

弘道館で優秀な人材を育て家臣にし、能力を見極め適材適所に配置する。

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代々長崎の警護を与っていて外国に触れる機会が多かった佐賀藩は西洋技術の素晴らしさ、そして恐ろしさに早くから気付いていました。

先見の明に優れていた彼は能力ある家臣を集め、西洋の技術を研究させ自藩の武器とします。

薩長土肥という言葉があります。薩摩、長州、土佐、肥前(佐賀)のことで、明治維新はこの4つの雄藩が中心となり突き進んでいきました。

佐賀藩がこの4藩に入れたのは優秀な人材獲得した西洋技術があったからです。

 

終わりに

佐賀城

1871年(明治4年)に鍋島直正は亡くなります。この3年後、佐賀の乱が勃発します。

この戦いは士族(武士)と明治政府の間で行われました。中心人物は江藤新平、島義勇です。

佐賀市が舞台となり佐賀城も戦禍に巻き込まれ大きな被害にあいました。

いちち
後日知ったので写真を撮れませんでしたが、当記事一枚目の写真(鯱の門)には生々しい銃弾の跡が残っています。

詳しくは↓をご覧ください。

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おしまい!



佐賀城

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