秀吉による三木の干殺しとは?三木城と別所長治について【兵庫の旅】

三木城

兵庫県三木市の三木城跡に行ってきました。

三木の干殺しと呼ばれる兵糧攻めが行われた城として有名です。

それでは三木城の歴史、そして三木の干殺しについて詳しく見ていきましょう。

 

三木城へのアクセス

かなり迷いました。

三木城のすぐ近くまで自動車で行けますが、かなり狭い道を通っていくので難易度が高いです。

少し離れたところの駐車場を探した方がいいかもしれません。地図を見ると周辺に幾つかの駐車場があります。 

 

三木城の歴史

三木城

現地の案内板に次のように書かれています。

三木城は、室町時代の十五世紀後半に別所則治によって築かれ、以後別所氏の居城となりました。

三木城 案内板より

別所氏は播磨国の赤松氏の庶流と云われています。

則治の孫・別所就治の代になると赤松氏から独立し、山陰地方の尼子氏や畿内の三好氏、摂津の有馬氏などと争いました。

 

三木城

就治の跡を継いだ別所安治は織田信長が上洛してくると、それに従い畿内の三好氏と戦っています。

そして安治の嫡男・長治の代に別所氏存亡の危機が訪れます。

 

三木の干殺しとは

三木城

1577年(天正5年)から織田信長は中国地方の攻略を始めました。これを中国攻め、或いは中国征伐といいます。

信長から中国攻めの命を受け播磨に入った羽柴秀吉は黒田孝高(官兵衛)の居城を本拠とし転戦しました。

初めはうまく攻めていた秀吉ですが、三木城の別所長治、有岡城の荒木村重の謀反により窮地に立たされます。

 

別所長治の離反

三木城

父の時代から織田信長に恭順の意を示していた別所氏ですが、長治の代で反旗を翻します。

謀反の理由は幾つかあります。

身分の低い成りあがりの秀吉名門の別所氏はそりが合わなかった、上月城攻めのやり方が気に入らなかった(織田軍は降伏した赤松氏を許さず虐殺している)などと云われています。

しかしこれだけが理由ではなさそうです。様々な要因が重なって織田氏に従うのは危険という考えに至ったのだと思われます。

家中でも恭順派と反逆派がわかれていたようで、長治の叔父・重宗は謀反に反対して浪人になっています。その後、秀吉に従いました。

 

秀吉による三木城兵糧攻め

三木城

1578年(天正6年3月29日)から三木合戦が始まります。

秀吉は三木城を包囲し兵糧攻めをしながら支城の攻略を狙います。敵方の野口城、神吉城、志方城を攻め落とし三木城の周囲に付城を築き更に包囲を固めました。

この兵糧攻めを三木の干殺しといいます。

しかし同年10月、織田家臣の荒木村重が謀反し毛利方に付いてしまいます。支城攻略で三木城への輸送ルートを潰した織田軍でしたが、有岡城の荒木村重が寝返ってしまったため輸送ルートが復活してしまいました。

有岡城の戦いについては別記事で詳細を書きます。

有岡城の戦いは荒木村重の撤退と織田信長による荒木一族の虐殺で幕を閉じました。

三木城は再び困窮の危機に陥ります。

 

三木城の落城

三木城

1580年(天正8年1月)、約1年8ヶ月続いた秀吉の兵糧攻めが終わります。

1月6日、羽柴秀吉は別所友之(長治の弟)が守る宮之上を占領。

1月11日、宮之上から別所吉親(長治の叔父)が籠る鷹の尾を見下ろし軍勢を寄せました。

引いた別所吉親を見た秀吉は三木城本丸に総攻撃を仕掛けます。

1月15日、秀吉の与力になった別所重宗(織田氏を裏切ったときに浪人になった長治の叔父)が城の者を呼び出し別所長治、吉親、友之の三名へ書状を届けさせます。

『摂津の荒木、丹波の波多野のような果て方をしたら末代までの恥になる。このうえは腹を切るしかない。』

これに対し長治らは『自分たちは腹を切るので、城内の者たちの命は助けてほしい。』と返答。

秀吉は大変喜び城内に酒樽を2~3樽送り届けました。長治は妻や家臣らを集め17日に切腹すると伝えます。そして最後の酒盛りを饗します。

叔父の吉親は首を辱められることを恐れ、家に火を放ち焼身しようとしますが部下たちに止められ殺害されています。

長治、友之兄弟は切腹の前に家臣たちを呼び出しました。

此度之籠城兵粮事尽て牛馬を食し虎口を堅籠城相届志前代未聞之働芳恩不申足併我等相果諸士を相助身之悦不可過之とて

信長公記 播州三木落居之事より引用

この度の籠城は兵糧がこと尽きて牛馬を食べながらも虎口を堅め、籠城の志を遂げた、前代未聞の働き、礼を申しても足りない。我らは果てるが、諸士たちが助かるなら身の悦びこれに過ぎたるものはない。

 

辞世の句

三木城

『いまはただうらみもなしや諸人の命にかはる我が身と思へば』

別所長治の辞世の句です。

 

三木城の最後

三木城

三木城落城後、羽柴秀吉は姫路城を居城とし三木城に杉原氏、中川氏などの城主を置きました。

江戸時代に入り池田輝政が播磨国の大名になると重臣の伊木忠次が三木城に入城します。

1615年(元和元年)、幕府が発布した一国一城令により三木城は廃城になりました。

 

終わりに

三木城

別所氏は長治の叔父・重宗が早い段階で織田氏に従ったため断絶することなく続いています。

後に大名家としては断絶してしまいますが、徳川幕府の旗本として存続しました。

似たような話に鳥取の飢え殺しがあります。お時間がある方は↓もご覧ください。

鳥取城

鳥取の飢え殺しとは?鳥取城が心霊スポットと噂される理由について【鳥取の旅】

2018-12-26

おしまい!



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA