なぜ、竹中半兵衛の墓がここに?どんな理由があるのか調べてみた【兵庫の旅】

竹中半兵衛の墓

兵庫県の三木市に竹中半兵衛の墓があります。

美濃国の武将である竹中半兵衛の墓が何故ここにあるのか?

その理由について見ていきましょう!

 

竹中半兵衛の墓へのアクセス

竹中半兵衛の墓

山陽自動車道の三木東ICから約10分の距離にあります。

高速道路を下りて三木東インター入口を左折、御坂の信号を右折し県道38号線に入ります。

しばらく道なりに進み宿原西の信号を右折。2~3分進むと看板が出てくるのでそれに従えばok。

 

竹中半兵衛について

岐阜城

竹中半兵衛(重治)は美濃国(現在の岐阜県)に生まれた戦国武将です。初めは稲葉山城(後の岐阜城)の斎藤氏に従いますが、主君の放蕩ぶりに見切りをつけた半兵衛は安藤守就らと共に稲葉山城を乗っ取っています。しばらく戦い続けた後、城を明け渡し下野しました。

岐阜城

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その能力を欲しがった織田信長は配下の木下秀吉(豊臣秀吉)に登用するように命じました。このとき秀吉は三顧の礼で竹中半兵衛を引き入れたと伝わります。

・三顧の礼

地位のある人物が賢人などに礼を尽くして招き入れること。

三国志の劉備玄徳と諸葛亮孔明のやり取りが故事になっています。

 

何故、ここに墓があるのか?

竹中半兵衛の墓

1577年(天正5年)から織田信長は中国征伐を開始します。

中国攻めの総大将に任命されたのは羽柴秀吉(豊臣秀吉)です。その参謀として活躍した竹中半兵衛は秀吉と共に参戦しています。

五月廿四日(天正6年)

竹中半兵衛申上候之子細は備前内八幡山之城主 御身方仕候由申越候被成御滿足羽柴筑前秀吉かたへ黄金百枚□竹中半兵衛に銀子百兩被下忝次第にて罷歸候也

信長公記 洪水之事より

天正6年5月24日

竹中半兵衛がことの詳細を申し上げにやってきた。内容は備前国の八幡山の城主が味方になったというものだった。信長は満足して秀吉に黄金100枚、竹中半兵衛に銀子100両を与えた。半兵衛は恐れ多い次第で帰っていった。

原文の□は読めない漢字/変体仮名でした。

 

竹中半兵衛と黒田官兵衛

竹中半兵衛の墓

同じく秀吉の参謀として活躍した黒田官兵衛と竹中半兵衛は深い関係があります。

中国攻めの最中、有岡城の荒木村重が反旗を翻しました。黒田官兵衛はその説得に有岡城へ向かいますが、捕らえられ1年もの間、土牢に幽閉されてしまいます。

戻ってこない官兵衛を織田信長は疑いました。そして息子の松寿丸の首を切れと命令します。

荒木が孝高を禁獄したる事をば信長知給はずして、官兵衛も荒木に同心し、城中に楯籠りて歸らざると思召、大い怒り給ひて、官兵衛が人質松壽を殺すべき由、竹中半兵衛重治に仰付らる。此已前より秀吉は播州に下り、長濱には居給はず。半兵衛は信長公の臣たりしが、先年より秀吉の先備に加へ給ひしかば、秀吉の一味たるに依て、秀吉の預り給へる人質の事を、半兵衛に仰付られけるなり。半兵衛は智惠深き人成しが、信長公を諫めて曰、官兵衛旣に身方に屬し、忠義の志不淺候。其上智惠ある者にて候間、强き味方を捨、弱き敵に與し申べきいはれなし。人質を御殺候はば、官兵衛又は其父美濃守恨をふくみ、御敵に成候はば、中國御退治もはか行申間敷候間、人質御殺候事惡かりなんと再三申されしかども、信長公御憤深くして、諫を用ひ給わず。半兵衛力及ばず、松壽を、殺候由信長公へ申上、ひそかに松壽を、わが領地美濃國不破郡岩手の奥菩提と云居城に遣し隱置て、最懇にもてなしける。

益軒全集 黒田家譜 巻之一 53~54頁より

信長公は荒木村重が黒田官兵衛を拘束していることを知って、官兵衛も荒木に同心し、有岡城に立て籠もって帰らないと思い、激怒して官兵衛の人質・松寿丸を殺すべきだと、竹中半兵衛に仰った。これより前に秀吉は播州に行っていて長浜にはいなかった。半兵衛が秀吉の先備えに加えられたので、秀吉に預けている人質のことを半兵衛に伝えた。半兵衛は智恵深い人だが、信長公を諫めて言った、官兵衛は既に味方に属し、忠義の志浅くありません。そのうえ智恵ある者です。強い味方を捨て弱い敵に与することはない。人質を殺せば、官兵衛又その父の美濃守に恨みを買い敵になり、中国攻めも進みません。人質を殺すことは悪いと何度も言いましたが、信長公の怒りは深く、諫言を聞き入れなかった。半兵衛力及ばず、松寿丸を殺しましたと信長公に伝えた。ひそかに松寿丸を自分の領地美濃国不破郡岩手の奥菩提という居城に隠し置いてもてなした。

いちち
訳は何となくです。がこんな感じの意味だと思います。

松寿丸は後の黒田長政です。

 

竹中半兵衛の死

六月廿二日(天正7年)

羽柴筑前與力に被仰付候竹中半兵衛播州御陣にて病死候其名代として御馬廻に候へつる舎弟竹中久作播州へ被遣候

信長公記 丹波国波多野兄弟張付之事より

天正7年6月22日

羽柴秀吉の与力である竹中半兵衛が播州の陣にて病死した。その名代として馬廻をしていた弟の竹中久作が播州へ遣わされた。

 

終わりに

竹中半兵衛の墓

写真は三木合戦の際に秀吉が本陣とした平井山です。ここから別所長治が守る三木城を攻略しました。

三木城

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竹中半兵衛は三木城の攻略の最中に病死してしまったため、平井山の麓に弔われました。

いちち
半兵衛の遺骨はここに埋葬されているのかな?

多分、故郷にでも送られたのではないかと思っています。

黒田官兵衛は有岡城から解放されて半兵衛の死を知ります。松寿丸が半兵衛に助けられたこと知った官兵衛は何を思ったでしょう。

おしまい!



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