信長もビックリ!?荒木村重の謀反と有岡城の戦いの悲劇について【兵庫の旅】

有岡城

伊丹城は摂津の国人衆・伊丹氏が南北朝時代に築城したと云われています。

戦国時代になると織田信長の配下である荒木村重が伊丹城を攻め落とし入城。

荒木村重は伊丹城を居城と定め、大改修を行った後、有岡城に改名しました。

いちち
さて、荒木村重という武将、このあと大変な事件を引き起こしてしまいます。

今回は有岡城跡の風景と共に荒木村重の人生、そして有岡城の戦いについて見ていくことにしましょう。

 

伊丹・有岡城へのアクセス

有岡城

阪神高速11号池田線の豊中北出口から下ります。走井の交差点を左折したいところですが、出来ませんので少し直進して走井北の信号を左折します。

その後、走井西の信号を右折。しばらく走ると伊丹市に入ります。

伊丹1の信号を左折し、伊丹郵便局前を左折、青看板にJR伊丹駅と出てきますので、それに従います。

私は駅を通り越した先にあるJR伊丹駅前駐車場に駐車しました。

 

荒木村重について

荒木村重

1535年、荒木村重は摂津池田氏の家臣、荒木義村の息子として生を受けました。

織田信長が上洛し摂津を攻略すると和田惟政、伊丹親興、村重が仕えていた池田勝正の3名を守護とし地域の統治を命じます。これを摂津三守護といいます。

池田勝正は織田信長が窮地に陥った金ヶ崎の退き口で木下(羽柴)秀吉や明智光秀らと殿軍を務めています。

 

野心家、村重!

有岡城

村重は池田勝正の下で力を付け、前当主・池田長正の娘を娶り一門衆となりました。

野心家の村重、1570年に三好氏の調略を受け池田知正と手を組み勝正を追放しています。

1571年、白井河原の戦いで摂津三守護の一人・和田惟政を破り、更なる地位を手に入れます。

 

村重の下剋上

有岡城

1573年、逢坂(滋賀県大津市)で細川藤孝と共に信長に対面し織田家臣となります。

同年に起きた槇島城の戦い(織田信長vs足利義昭)や若江城の戦い(織田信長vs三好義継)で村重は活躍しました。その功績が認められ摂津一国を与えられます。

ちなみに元主君の池田知正は足利義昭や三好氏に従ったため敗将に。そして村重に雇われます。

いちち
下剋上!大出世!!!

 

信長に従う村重

有岡城

1574年、伊丹氏が守る伊丹城を落としここを居城とします。

大規模な改修を行った後、伊丹城を有岡城に改名。

1575年、播磨に出兵。

1576年、本願寺顕如が立て籠もる石山本願寺の包囲に加わっています。

1577年には羽柴秀吉と紀州の雑賀攻め。

そして1578年、信長を裏切った別所長治の三木城攻めに参陣。

三木城

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荒木村重の謀反

有岡城

十月廿一日

荒木摂津守企逆心之由方々より言上候不實に被思食何篇之不足候哉存分を申上候はば可被仰付之趣にて 宮内卿法印 惟任日向守 万見仙千代を以て被仰遣之處に少も野心無御座通申上候

信長公記 荒木摂津守企逆心並伴天連事より

天正6年の10月21日(1578年)。

荒木村重が逆心を企てていると方々より連絡があった。信長公は無実だとお思いになり、『何の不足があるのか、満足するようにしよう。』と松井友閑、明智光秀、万見重元を遣わしたところ『少しも野心はありません。』と答えた。

荒木村重は自身の母を人質として出すと約束し、信長は『そう言うことなら一回おいで』と伝えます。

しかし村重はやってきませんでした。

 

有岡城

天正六年の秋の比より、津國有岡面に雜説申出、しきりに信長へ御敵に罷成由風聞候。さ様には有間敷事哉とれきれき被差下、調共依有之、荒木信濃守も雜説可申分由申、茨木城まて罷上、則安土へ罷越候處、中川瀨兵衞尉茨木城守候處、是非共あつちへ御越不及覺悟候。あつちにて腹を可仕より津國表へ引請及合戰候共、手にためず切崩可申處を、安土にていぬ死さたのかきりと申留、旣有岡え荒木立歸、おもはす不斗御敵を仕候。

左京亮宗繼入道隆佐記より

天正6年の秋の頃より、摂津国有岡に様々な話が出ました。それは荒木村重が信長の敵になったという噂です。

信長はそのようなことはあるわけがないとはっきりいい、調べたのであります。

荒木村重もこの噂に対して言いたいことがあるというので、茨木城まで出てきました。

安土城へ途中で、茨木城守の中川清秀が『危ないからあっちへ行かない方がいい』といいました。

『あっちで腹を切るより摂津国に引き入れ合戦しよう。安土で犬死なんてもってのほか。』

すでに有岡へ帰る荒木、思いがけず敵になってしまいました。

いちち
無理やり訳しました。

多分こんな感じの内容だと思います。

間違っているかもしれません。

 

有岡城の戦いについて

有岡城

荒木村重は信長に対抗するため毛利輝元や本願寺顕如らと同盟を結びます。

信長は何度か使者を送り村重の説得を試みますが失敗に終わります。羽柴秀吉の参謀・黒田官兵衛は有岡城に単身で説得に当たりますが、捕らえられ1年もの間幽閉されてしまいました。

有岡から戻ってこない黒田官兵衛を信長が疑い人質の松寿丸(後の黒田長政)を殺せと命じています。これについては↓の記事で書いていますので時間がある方はどうぞ。

竹中半兵衛の墓

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2019-01-01

天正6年の11月6日(1578年)、織田方の九鬼嘉隆が木津川口南方の海上で毛利水軍と争い勝利。

これをきっかけに織田軍は摂津に侵攻。茨木城を攻囲しつつ荒木勢の攻略を開始します。

信長は高槻城主の高山右近がキリシタン大名であることを利用して調略、見事味方に引き入れました。

11月24日夜、茨木城が開城。これは中川清秀の内通によって為されたものです。

いちち
左京亮宗繼入道隆佐記に書かれていることが真実だとしたら…。

中川清秀は荒木村重を裏切らせた張本人になります。なのにどうして?清秀はあっという間に村重を裏切ってしまいました。

ちなみに中川清秀は1583年の賤ヶ岳の戦いで戦死します。その子孫は豊後国(大分県)岡藩の藩主となり明治維新に至るまで大名家として続いています。

家系を後世に繋ぐことに成功したのですから、彼の判断は間違っていなかったのかもしれません。

少々、脱線しましたね。荒木村重の話に戻ります。

 

有岡城

織田信長は有岡城の周囲に付け城を築き着々と攻囲を狭めてゆきます。

九月二日の夜

荒木攝津守 五六人召列伊丹を忍出 尼崎へ移候

信長公記 荒木伊丹城妻子捨忍出之事より

天正7年9月2日(1579年)の夜

荒木村重が5、6人連れて伊丹から忍び出る。尼崎へ移動した。

いちち
雲行きが怪しくなってまいりました。

 

十月十五日 瀧川左近 以調略 佐治新介使を仕 中西新八郎を引付中西以下才覺 足輕大將之 星野 山脇 隱岐 宮脇 致謀叛 上﨟塚へ 瀧川人數引入餘多切捨候取者不取敢上を下へとなつて城中へ逃入親子兄弟をうたせ泣かなしむ計也町をば居取にいたし城と町との間に侍町有是をば火を懸生か城になされたり

(中略)

諸手四方より近々と推詰城樓かねほりを入攻られ命御助被成候へと御侘言申侯へとも御許容無之

信長公記 伊丹城謀叛之事より

10月15日

滝川一益の調略を以て、佐治新介をして敵方の中西新八郎を引き入れ、中西によって足軽大将の星野、山脇、隠岐、宮脇を謀反させた。

上﨟塚へ、滝川が数人引き連れ多くの敵を切り捨てた。

パニック状態になって城中へ逃げ入る。親子兄弟が討たれ泣き悲しむだけである。町を取り、城と町の間に侍町がある。これに火をかけ裸城にした。

諸々の隊は四方より城を詰め、城楼や金堀衆を入れ、命だけはお助けくだされと詫びるを言っても許さなかった。

伊丹の町は織田勢に占領され残るは丸裸になった有岡城。織田軍は井楼や金堀衆が投入し本格的な攻城戦を仕掛けます。助命嘆願には耳を貸さず攻めに攻め抜きました。

 

有岡城

十一月十九日

荒木久左衛門外歴々之者共妻子爲人質 伊丹に残置あまか崎へ罷越 荒木に異見申尼崎はなくま進上仕其上各之妻子助可申之御請申究何れも尼崎へ越申也

信長公記 伊丹之城ニ在之年寄共妻子兄弟置捨退出之事より

11月19日

荒木久左衛門とその他の歴々の者らは妻子を人質とて伊丹に残し、尼崎へ行って村重に『尼崎、花隈を進上しましょう』と異見を申すことにした。

その上、各々の妻子は助けられる決まりになった。

荒木久左衛門は荒木村重のかつての主君・池田知正のことだと云われているそうです。

この説得に村重は応じませんでした。そして荒木久左衛門らはそのまま姿をくらましてしまいます。

 

有岡城の悲劇

有岡城

今度尼崎はなくま渡進上不申歴々の者共之妻子兄弟を捨我身一人宛助之由前代未聞之仕立也餘多之妻子とも此趣承り是は夢かやうつつかや恩愛の別れの悲しさ今更たとへん方もなし

(中略)

此由被及聞食不憫に雖被思食候佞人爲懲人質御成敗之様子山崎にて條々被仰出

信長公記 伊丹城相果たし御成敗の事より

この度、尼崎、花隈を進上せず、歴々の者共の妻子兄弟を捨て我が身一人助かろうとする様は前代未聞のことだ。数多の妻子たちは『これは現実なのか?』と、恩愛の別れの悲しさは例えようがなかった。

このことを聞き及んだ信長公は不憫に感じた。とはいうものの裏切り者を懲らしめるため人質を成敗する様子。山崎で条件を出された。

 

十二月十三日

辰刻に百二十二人尼崎ちかき七松と云所にて可被張付に相定各引出候さすが歴々の上﨟達衣装美々敷出立叶わぬ道をさとりうつくしき女房達並居たるをさもあらけなき武士どもが請取其母親にいだかせて引上引上張付に懸鐵炮を以てひしひしと打殺し鑓長刀を以て差殺し害せられ百廿二人之女房一度に悲しみ呌聲天にも響計にて見る人目もくれ心も消てかんるい押難し是を見る人は廿日卅日之間は其面影身に添て忘やらさる由にて候也

此外女之分 三百八十八人 かせ侍之妻子付々之者共也 男之分 百廿四人 是は歴々の女房衆へ付置候若黨以下也 合五百十余人

矢部善七郎 御檢使にて家四ッに取籠□み草をつませられ被焼殺候風のまはるに随て魚之こぞる様に上を下へとなみより焦熱大焦熱之ほのほにむせひおとり上飛上悲しみの聲煙につれて空に響獄卒之呵責の功も是成へし 肝魂を失ひ二目共更に見る人なし哀成次第中々不申足

信長公記 伊丹城相果たし御成敗の事より

12月13日

辰の刻に122人が尼崎の近くにある七松という所で磔にかけられると決まった。さすが身分の高い者たちだけあって美しい衣装を着ての出立であった。

もう助からないと悟る美しい女房たちを荒々しい武士どもが引き受け、其の母親に抱かせて引き上げ磔にかけた。

鉄砲で撃ち殺し、槍や長刀で刺し殺された。害された122人の女房たちは一度に悲しみの叫び声をあげ、天にも響くばかりだった。見ている人は目がくらみ心が消え涙を抑えられない。20、30日その有様がちらつき忘れることは出来なかった。

この他女が388人、これは身分の低い侍の妻子とお着きの者たち。男が124人、これは身分の高い女房たちの付き人の若党。合わせて510余人。

矢部善七郎、4ッの家に詰め込み、草を積み焼き殺した。風がまわるに従って魚群のように上を下へとなみより焦熱大焦熱の炎に咽び踊り飛び上がった。悲しみの声、煙につれて空に響く。地獄の番人の責めのようだ。みな胆力を失い二度見ようとするものはいなかった。哀れ過ぎて何も言えなかった。

いちち
有岡城の悲劇はまだ続きます…。

 

有岡城

12月16日、荒木村重の親類の処刑が開始されます。

(前略)

此外車三両には子供御乳付々七八人宛乗られ上京一條辻より室町通洛中をひかせ六條河原迄引付らる

(中略)

たしと申はきこへ有美人也古しへはかりにも人にまみゆる事無を時世に随ふならひとてさもあらけなき雜色共之手にいたり小肘つかんて車に引乗らる最後之時も彼たしと申車より下様に帯しめ直し髪高々と結直し小袖之ゑりを押退て尋常に切られ候

(中略)

久左衛門むすこ十四歳之自念 伊丹安大夫むすこ八歳のせかれ二人の者おとなしく最後所は爰かと申候て敷皮に直り頸抜上て切るるを貴賤ほめすと云者なし栴檀は二葉よりしてかんばしく荒木一人之所爲にて一門親類上下の數を知らすしてうの別れ血の涙をながす諸人の恨おそろしやと舌を卷ぬ者もなし兼て頼みし寺々の御僧達死後を取隱申さるる生便敷御成敗上古よりの初也

信長公記 伊丹城相果たし御成敗の事より

この他3両の車には子供、御乳付けらが7、8人乗らされた。上京一条辻から室町通を引かれ六条河原まで連れてこられた。

(中略)

だし(村重の妻)は美人で有名であった。かつては人の目に曝されることはなかったが、時世に習いに従い、荒々しい雑色どもは手で小肘を掴んで車に引き乗せた。

最後の時、だしは車を下り帯を締め直し、髪を高々と結い直し小袖の襟を押し引いて乱れることなく首を斬られた。

(中略)

久左衛門の息子の自念は14歳、伊丹安大夫の息子は8歳。二人はおとなしく『最後の所はここか』と申して敷き皮に直り首を斬られた。これをみた貴賤で褒め称えない者はなかった。『栴檀は二葉より芳し』とはこのことであった。

荒木村重一人の為に一門親類の多くが四鳥の別れに血の涙を流した。彼らの恨み恐ろしやと舌を巻かないものはいなかった。兼ねてより頼んでいた寺々の僧侶が死後を取り隠した。これだけの御成敗はいままでないことだった。

いちち
以上が有岡城の悲劇です。

詳細が気になる方は信長公記を読んでください。

 

終わりに

有岡城

さて、この悲劇の黒幕・荒木村重はどうなったか?

なんと!無事に生き長らえることに成功しました!!!

フロイスの日本史に村重その後が書かれています。

織田信長が本能寺の変で横死したのち、羽柴秀吉に取り入りました。

小西行長とその父が秀吉から寵愛されていることに嫉妬した村重は偽証を以てこれを解任に追いやります。しかし小西父子は復職しより高い収入と地位を得たとあります。

そしてこれにより荒木(村重)は自らの信用を大いに失墜することになった。

完訳 フロイス 日本史4 豊臣秀吉Ⅰ 36頁より

 

お茶の席で秀吉と村重が同席した時のこと。

秀吉が高山右近のことを褒め称えます。すると村重は…。

『さようではござりませぬ。殿が讃えられる右近の勇気は実は見せかけに過ぎず、本ものではありませぬ。』と。羽柴(秀吉)はこれらの言にひどく感情を害し、二度にわたって彼を汝(tu)と呼び、『出て行け。予にさようなことを申すな。予は右近がまったく表裏のない人物であることを熟知しておるのだ』と言った。

完訳 フロイス 日本史4 豊臣秀吉Ⅰ 36頁より

 

極めつけはこれ↓

羽柴(秀吉)が三河の戦いに赴き、荒木(村重)が都に留まっていた折、彼は秀吉を軽蔑した幾つかの言を口外したらしく、それはただちに大坂にいた羽柴(秀吉)殿の婦人(おね、北政所)の耳に達した。彼女が使者をして荒木を厳しく叱責させたところ、荒木は羽柴(秀吉)が帰陣すればただちに自分に死刑を命ずるであろうと恐れをなし、女および家屋を捨て、頭を丸めてある仏寺に身を寄せた。だがそことても安全な場所とは思えなかった。

完訳 フロイス 日本史4 豊臣秀吉Ⅰ 36~37頁より

 

そして天正14年5月4日(1586年)、堺で村重は亡くなりました。享年52。

いちち
村重が信長を裏切った理由は様々な説が出ています。

でも決定的な説がありません。

これほどまでに生に執着した武将を私は知りません。

『俺は死ななかった、信長は死んだ。俺の勝ちだ!』ぐらいのこと思っていたかもしれませんね。

秀吉が村重を御伽衆した理由が何となくわかる気がします。結局それもダメになったのだけれど…。

みなさんは村重に対してどう思いました?

おしまい!



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