
1618年(元和4年)、小笠原忠真が徳川秀忠の指示を受け明石城の築城を開始しました。
築城の目的は西国の諸大名を牽制するため。戦国の世が終わったとはいえ、まだまだ油断ならないと考えたのでしょう。

城下町の町割り(まちづくりの計画)には、かの有名な剣豪・宮本武蔵が参加したと伝わります。
また、武蔵は明石城内に城主の遊興所『樹木屋敷』を設置しました。
当時あった場所とは異なりますが、『武蔵の庭園』という名称になって再現されています。

苦労して明石城を築いた小笠原忠真ですが、1632年(寛永9年)に北九州の小倉に移封となってしまいます。
越前松平氏が入封するまでコロコロ城主が変わっています。
徳川氏に所縁のある家系ばかりが城主になっていることから、明石城が江戸幕府にとって重要な城だったということがわかります。

1873年(明治6年)の廃城令で明石城は廃城になります。その後、明石城跡には民営の公園が設置されました。
1898年(明治31年)、皇室の御料地とするため宮内省管轄になり廃園。
しかし御料地計画が立ち消えたため再び開園しています。そして現在に至ります。
左が坤櫓(ひつじさるやぐら)、右が巽櫓(たつみやぐら)

明石城内には人丸塚という遺跡があります。以下のような由縁が伝わります。
一、弘仁三年(八一二年)僧空海がここに楊柳寺を建てた
一、仁和のころ(八八〇のころ)住職覚証が柿本人磨公の夢のおつげで人磨公を祀った
一、明石築城後は城の守り神として祀られてきた
人丸塚 案内板より
月照寺のHPによると空海が建立した楊柳寺は月照寺に改称され、明石城築城の際に移転されたとあります。
また、柿本人麻呂を祀った社は明治初期に発布された神仏分離令で分けられ柿本神社になったと記されています。
終わりに

以上が明石城についてでした。

おしまい!
弾丸一人旅だったので明石城以外どこにも行けませんでした…。
たまにはゆっくり旅してみたいものです。