日本五大山城に数えられる七尾城に登って来た!【石川の旅】

七尾城

七尾城は石川県と富山県に跨る石動山の北端に築城された山城です。

能登国の守護・畠山氏の居城として知られています。

七尾城は、室町幕府の将軍を補佐する管領職を勤めた畠山氏の有力庶流として、応永一五年(一四〇八)に独立した能登畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(十六世紀初頃)に能登府中(守護所)にかわる新たな拠点として築いた山城です。

史跡 七尾城跡より

七尾という名前は主郭がある尾根から枝分かれする7つの尾根が由来だとされています。

 

七尾城へのアクセス

七尾城

能越自動車道の七尾城山ICを下りてすぐの信号を左折します。800m程進んだ先にある城山の信号を左折し道なりに進めば七尾城跡の駐車場に到着します。

案内板が設置されていますので迷うことはないと思います。

JR七尾駅からバスを利用して七尾城史資料館まで行けますが、そこから七尾城までかなりの距離があります。タクシーで行くか何処かでレンタカーを借りるのが無難です。

 

七尾城の歴史

七尾城

能登に訪問した京都・東福寺の彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)が独楽亭記という詩を詠み七尾城を伝えています。

七尾の繁栄は太守の畠山義総の優れた能力があってのもの。山の下にはたくさんの人家があり一里ほど連なっている。美しい衣服、米や塩、鉄もある。行商人が往来し、店が立ち並ぶ。七尾の城下町はとても賑わっている。夕暮れどきになると、寺の鐘が互いに響きあうように鳴る、幻想的である。七尾山から石動山への尾根道は朝夕多くの人馬が行き来する。

畠山義総は能登畠山氏の全盛期を築いた人物です。内政、外交に優れる文化人として戦国の世を生きました。

 

七尾城

1545年、畠山義総が亡くなると次男の義続が跡を継ぎます。

ここから能登畠山氏の没落が始まりました。

内訌によって崩れ、弱った所に敵が攻め込んできたといった感じです。

 

七尾城

能登畠山氏には温井総貞、遊佐続光、長続連などの有力家臣がいました。

義総の死後、彼らは重臣7人で結束し主権を握ります。これを畠山七人衆といいます。

七人衆は主君を追い出したり、新しく擁立したり、家臣同士で争ったりと好き勝手やっていました。能登畠山氏は家臣らの傀儡に成り下がってしまいました。

 

七尾城

織田信長が北陸地方まで勢力を拡げると親織田派であった七人衆のひとり長続連が力をつけます。

そんな中、越後の上杉謙信が七尾城の攻略に取り掛かります。2度に亘り七尾城を巡る争いが繰り広げられました。七尾城の戦いと呼ばれています。(1576~1577年)

第二次七尾城の戦いで長続連は徹底抗戦するも城内疫病の蔓延、温井氏や遊佐氏の裏切りにより落城。続連は出家していた息子の連龍を織田信長に派遣し援軍要請しましたが、織田家中でも様々な問題が起こっており援軍は間に合いませんでした。

 

七尾城
霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷懐遠征

上杉謙信が七尾城の攻略中に石動山本陣で詠んだと伝わる『九月十三夜陣中作』です。

霜は軍営に満ち秋の気は清い 数列の雁が飛び過ぎ夜半の月が輝く 越中、越後の山々併せて能州の景色も得る 故郷の者たちがこの度の遠征を心配しているだろうが…。まぁ、いっか。
いちち
最後の『遮莫家郷懐遠征』が堪らなく好きです。

※上杉謙信の作品ではないという意見もあるようです。

 

七尾城

七尾城を攻略した上杉謙信は七尾城に迫る織田軍を手取川の戦いで破り更なる侵攻を目指すも、1578年に死亡。

その後、七尾城は織田氏の手にわたります。前田利家が入城しましたが、新たに築いた小丸山城を拠点にしたため1589年に廃城となりました。

 

終わりに

七尾城

土地開発や大きな災害などにあわなかったため遺構が今尚美しい状態で残されています。

1934年(昭和9年)に国の史跡に指定。2006年(平成18年)、日本100名城に選定されました。表題の日本五大山城は七尾城と『新潟・春日山城』『島根・月山富田城』『滋賀・観音寺城』『滋賀・小谷城』の総称です。

いちち
他にもたくさん写真を撮って来たのですが紹介出来ないのが残念です。

おしまい!



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