信貴山城の歴史について!戦国の世を震わせた梟雄・松永久秀の終焉の地を歩く【奈良の旅】

信貴山城

信貴山城は標高433mの信貴山・雄嶽を中心として東西550m、南北700mに広がる大規模な中世山城です。郭は120以上もあったとされています。

戦国時代を震撼させた戦国三大梟雄の一人・松永久秀の居城であり、茶器・古天明平蜘蛛を抱いて爆死したという逸話が残る場所でもあります。

戦国三大梟雄とは

北条早雲、斎藤道三、松永久秀の御三方を指します。(北条早雲の代わりに宇喜多直家が入ることも)

梟雄は『残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。』という意味です。

いちち
この度、信貴山城に登城してきましたので、その歴史と共に信貴山の風景をお送りします。

 

信貴山城へのアクセス

信貴山城

色んなルートがあって説明しきれません!自動車で行くならカーナビかナビアプリで『朝護孫子寺』と検索して向かってください。

JR、近鉄・王寺駅北口から『信貴山門ゆき』に乗って『信貴大橋』で下車、そこから徒歩5分ほどで到着します。また大阪府側にある近鉄・信貴山口から西信貴ケーブルを利用し高安山駅からバスに乗っても行けます。

 

信貴山城の歴史

信貴山城

信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された地である。

古くは天智朝における高安城中心城域となり、中世には護良親王が鎌倉幕府への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。

信貴山城 平群町教育委員会(現地案内板)より引用 

細かく見ていきましょう!

 

天智天皇と高安城

信貴山城

天智天皇の在位は668年~672年。

『日本・百済』と『唐・新羅』の間で行われた白村江の戦い(朝鮮半島)で敗北した日本は万一に備え防衛体制を整えます。

是月。築倭國高安城。讃吉國山田郡屋嶋城。對馬國金田城。

日本書紀 天命開別天皇 天智天皇より

筑紫国に水城や大野城、讃岐国の屋嶋城、対馬国の金田城、そして大和国に高安城を築きました。

高安城域に信貴山が入っているとされています。しかし遺構が残っていないらしく高安城の正確な場所はわかっていないようです。今後、発掘調査などによって判明することがあるかもしれません。

 

護良親王と信貴山

信貴山城

同年の六月三日、大塔宮志貴の毘沙門堂に御座有と聞へしかば、畿内・近国の勢は不及申、京中・遠国の兵までも、人より先にと馳参ける間、其勢頗尽天下大半をぬらんと夥し

太平記 公家一統政道事より

『同年の6月3日、護良親王が信貴山の毘沙門堂にいらっしゃると知られると、畿内・近国の勢力は申すに及ばず、京や遠い国の兵までも、我先にと馳せ参じ、その軍勢は凄まじい規模になった。』

これは鎌倉幕府が滅びた後の話で、後醍醐天皇の皇子・護良親王が足利尊氏を牽制する場面です。同時代を生きた人物で信貴山に由緒がある人物がいます。

 

楠木正成と信貴山

信貴山城

その母若かりし時、志貴の毘沙門に参つて、夢想を感じて儲けたる子にて候ふとて、幼名を多聞とは申し候ふなり

太平記 笠置臨幸の事より

『母親が信貴山の毘沙門天にお参りすると子宝に恵まれ、その子に多聞と名付けた。』

後醍醐天皇が笠置寺で二人の童子から神託を受けた際のお話です。

童子は『天下全てにおいて御身を隠す場所はありません。しかし、このの陰に、に向かう座席があります。これは貴方様のために設けた玉座です。しばらくここでお休みください。』と天皇に伝え、天に去っていきました。

『木+南=楠じゃ!』と考えた後醍醐天皇は僧侶に『楠という武士はいないか?』と尋ね金剛山の楠木正成に辿り着きます。

上記引用文は僧侶が楠木正成を紹介する場面に当たります。

 

木沢長政と信貴山城

信貴山城

信貴山に本格的な城を築いたのは木沢長政だと云われています。

木沢長政は畠山義堯、及び細川晴元に被官した戦国武将です。

木沢方へ今度信貴山之上ニ城をこしらへ候て、はや移候間、従所々樽共行候條、遣候て可然よし、中坊とて候、三種五荷遣候、

『天文日記』天文五年六月二十六日(一五三六年)

(山下真理子 著『天文期木沢長政の動向』100頁より孫引き) 

長政が信貴山城を築城したことが書かれています。お祝い(?)に浄土真宗の本願寺氏が酒樽を贈呈したという内容です。

木沢長政は群雄割拠の畿内を器用に立ち回りますが、最後は孤立し細川晴元や三好長慶に討ち取られてしまいます。その際、信貴山城は落城しています。(1542年・太平寺の戦い)

 

松永久秀と信貴山城

信貴山城
写真は信貴山城・松永屋敷跡にある木で作られた謎の人形です。

太平寺の戦いで落城した後、17年間信貴山城に空白の時間が流れます。そして1559年、松永久秀が信貴山城を拠点とし改修、改築を行いました。

松永久秀は三好長慶に仕え、長慶の死後、紆余曲折あって独立。大和国の大名になった武将です。最後は織田信長に背いて戦うも敗北し信貴山城で自害しました。

 

信貴山城

当記事冒頭に戦国三大梟雄の一人とお伝えしました。どのような背景があるのか見ていきましょう。

1.主君、三好義興を暗殺(1563年)

2.将軍・足利義輝の殺害(1565年)

3.東大寺大仏殿の炎上事件(1567年)

いちち
基本、何でもありな戦国時代ですが、いくら何でもやり過ぎだろ?!ということで三大梟雄なんてレッテルが張られてしまったのです。

 

信貴山城

『1.の主君、三好義興を暗殺』

三好義興は22歳の若さで病死しています。

 

其年八月廿五日長慶ノ一子筑前守義興於芥川城早世アリ黄疸ト云病起リテ忽カクレ給ヒケリ

(中略)

如何ナル故アリテニヤ近ク召仕フ輩ノ中ヨリ食物ニ毒ヲ入レテ奉リカク逝去アリト後ニ聞エケリ又松永ノウワサトモ申シケル

足利季世記 晴元逝去之事より

『その年、8月25日に三好長慶の子・義興が芥川城において早世、黄疸という病気で亡くなられた。どんなわけがあってなのか、近くの召使の輩が食べ物に毒を入れたため亡くなったとか松永久秀がやったという噂があると言った。』

 

近習ノ者食物ニ毒ヲ入レテ殺シケル共云ヒ松永弾正カ角ハカラヒケル共風聞ス何レニモ義興頓死セラレシ故ニ諸人ノ雑説止サリケリ

続応仁後記 巻八 細川晴元同氏綱三好義興死去事より

『近習の者が食べ物に毒を入れて殺したとも云い、松永弾正が関わったとも噂される。義興が頓死したためたくさんの人々の雑説が止まらなかった。』

いちち
松永久秀の三好義興暗殺事件は当時から噂の域を出ていないようです。

『あいつだったらやりかねない。』というように見られていたのでしょうか。

 

信貴山城

『2.の将軍・足利義輝の殺害』

十九日、乙卯、天晴、八専、申刻雨降、天一東、〇辰刻三好人數松永右衛門佐等、以一萬計俄武家御所亂入取卷之、戰暫云々、奉公衆數多討死云々、大樹午初點御生害云々、

言継卿記 永禄8年5月19日より

『永禄8年5月19日(1565年)、辰の刻、三好の人数、松永久通ら以下10000、武家御所に乱入し争う。奉公衆の多くが討ち死に、征夷大将軍・足利義輝は昼頃に自害した、』

ここに松永久秀の名前はありません。実行犯は三好義継や久秀の嫡男・久通です。

いちち
現場にいなかったとはいえ、暗殺が行われることは流石に知っていたのではないでしょうか。立場上、知らなかったじゃすまされない話です。

 

信貴山城

『3.の東大寺大仏殿の炎上事件』

これは松永久秀と三好三人衆の間で起きた多聞山城の戦いの最中に起こった事件です。久秀は多聞山城を拠点とし三好三人衆は東大寺に陣を置きました。

一 今夜子之初點より、大佛ノ陣ヘ多聞山より打入戰及數度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂へ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊へ次第ニ火付テ、丑剋ニ大佛殿焼了、猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了、尺迦像モ湯ニナラセ給了、言悟道斷、淺猿ゝトモ不及思慮處也、

(中略)

一 大佛ニ陳取衆悉以敗軍了、ヤリ中村討死、其外人數二三百人モ切死焼死了ト

多聞院日記より

『今夜11時頃より、大仏の陣に多聞山より攻め込まれ数度戦になる。戦による火災で穀屋から法花堂に火が付き、それより大仏の回廊へ次第に火が付いて午前1時すぎに大仏殿が焼けた。猛火が天に満ち、さながら雷電のよう、一気に消滅した。釈迦像もとけてしまった。言語道断。嘆かわしすぎて何も考えられない(?)』

いちち
失火なのか放火なのか、松永軍、三好三人衆軍どちらが関与しているのか?犯人はわかりません。

松永久秀が東大寺を攻めたことは間違いありません。しかし敵が東大寺に陣を置いていたので攻撃せざる終えなかったのです。彼だけを攻めるのはおかしな話です。

 

信貴山城の最後

信貴山城

その後、松永久秀は上洛する織田信長に従っています。そして二度裏切りました。

1577年(天正5年)、二度目の裏切りで松永久秀は信貴山城に籠城します。

『茶器・古天明平蜘蛛を差し出せば赦す!』と言った織田信長を拒絶し、古天明平蜘蛛を叩き割り信貴山城に火を付け自害しました。

古天明平蜘蛛に火薬を詰めて自爆したという伝説が有名ですが、創作っぽいです。

平蜘の釜と、我等の頸と二ツは信長殿御目に懸まじきとて、みじんこはいに打わる言葉と、少も相たがわず頸は鐵炮の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらくもの釜と同前なり

川角太閤記より

『平蜘蛛の釜と自分の首の二つは信長殿に見させはしない。こなごなに打ち割るという言葉に少しも違わず首は火薬で焼き割り、微塵に砕ければ平蜘蛛の釜と同じようになった。』

 

十一日、昨夜松永父子腹切自焼了、今日安土へ首四ツ上了、則諸軍勢引云々、先年大佛ヲ十月十日ニ燒、其時刻ニ終了、佛ヲ燒ハタス、我も燒ハテ也、大佛ノ燒タル翌朝モ村雨降了、今日モ、爾也、奇異ノ事也、

多聞院日記より

『(天正5年10月)11日、昨夜松永父子が腹を切り自らを焼いた。今日、安土へ首が四つ上がる。諸軍勢は引き上げる。先年、(松永久秀は)大仏を10月10日に焼いた。その時刻に終わった。仏を焼き果たす。自分も焼き果てた。大仏が焼けた翌朝も村雨が降った。今日もまたそうであった。不思議な事があるもんだ。』

 

十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間・羽柴・惟任・惟任諸口仰付けられ、信貴の城へ攻上られ、夜責にさせられ、防戦、弓折、矢尽、松永天主に火を懸け焼死候。

奈良の大仏殿、先年十月十日の夜炎焼。偏是松永の云為を以て三国隠れなき大伽藍事故なく灰燼となる。其因果忽ち歴然にて、誠に鳥獣も足を立つべき地にあらず、高山嶮所を、輙く、城介信忠、鹿の角の大立物ふり上げゝ攻めさせられ、日比案者と聞へし松永、詮なき企して己れと猛火の中に入り、部類・眷属一度に焼死、客星出来、鹿の角の御立物にて責させられ、大仏殿炎焼の月日時刻易らざる事、偏に春日明神の所為なりと諸人舌を巻く事。

信長公記 信貴城攻め落さるゝの事より

『10月10日の晩に、織田信忠と佐久間・羽柴・明智が信貴山城を攻め上り夜襲し、防ぎ戦い、弓が折れ、矢が尽き、松永久秀は天守に火を付け焼死した。

奈良の大仏殿は先年10月10日の夜に炎上。これは松永久秀の仕業で三国隠れなき大伽藍は灰燼に帰す。その因果は歴然で、鳥や獣でさえ立つことが難しい険しい場所であるのに、織田信忠は鹿の角の兜をかざして攻めると、知恵者と有名な松永、無益な裏切りをしたため自ら猛火に入り一族が一度に焼死した。客星が出来、鹿の角の兜に攻められた事といい、大仏殿の炎上の日と同様であったり、ひとえに春日明神の行いだろうと皆舌を巻いた。』

いちち
川角太閤記は爆死を匂わせる内容ですが、多聞院日記や信長公記では焼死したとしていますね。

大仏殿を燃やしたので罰が当たったという内容は興味深いです。本人が直接燃やしたわけではないですし、止む終えない状況だったことを考えると可哀想な気もしますが…。

 

終わりに

信貴山城

以上が信貴山城の歴史でした。

もし次に訪れることがあれば中腹にある朝護孫子寺をもっとしっかり見学したいです。あと訪問時大雨が降っていたので晴天の信貴山城を歩いてみたいものです。

おしまい!



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