蜂須賀家政が築城した徳島城の歴史と清玄坊の祟りについて【徳島の旅】

徳島城

1585年(天正13年)、豊臣秀吉が起こした四国征伐の功績で蜂須賀家政に阿波国が与えられます。

1930年(昭和5年)3月31日発行の『大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告』に以下のように書かれています。

次で小牧の役に家康に連合したる長曾我部元親を討たんとして四國征伐の軍をおこし、遂に之を平定したり。正勝又その子家政と共に軍に從ひ、就中家政の功最も著し。

家政はその功によりて阿波に封ぜられたり。元来阿波は正勝が封ぜられるべき筈なりしも、正勝は早くより大阪に居住し當に秀吉の左右に侍するの必要ありしより殊更に之を避けて秀吉に願ひ、家政をして阿波を領せしむるに至りしなり。

大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告 第一輯 第七 蜂須賀正勝墓より

『小牧の戦いで徳川家康に協力した長宗我部元親を討とうとして四国征伐の軍を起こし、遂にこれを平定した。蜂須賀正勝またその子・家政と共に軍を従え、とりわけ家政の功績が最も目立っていた。

家政はその功績によって阿波に領地を与えられた。もともと阿波は正勝の領地になるはずだったが、正勝は早くより大阪に移住するに当たり豊臣秀吉の左右に仕える必要ありと殊更にこれを避けて秀吉に願い、家政が阿波を領するに至った。』

 

徳島城

天正十三年蜂須賀氏入國して渭津に築城する前に渭山には渭津城として第一第二第三の城郭があつた。

蜂須賀氏の築城は渭水聞見録によれば之れを土臺として其の山下に城郭としての設備を加へたものである。

徳島市郷土史論 第七章 河野時代の遺蹟遺物 第一節 三島神社の存在より

蜂須賀家政は豊臣秀吉の命で猪山(現在の城山、渭山とも)に城を築き、もともと渭津と呼ばれていた地名を徳島に改めたと伝わります。

蜂須賀氏が入封する前から小さな山砦があったようです。南北朝時代に活躍した細川頼之の築城説、或いはもう少し遡った文永9年(1272年)に阿波国地頭となった河野通純が築いたという説もあるようです。
徳島城

その後、蜂須賀氏は淡路島も与えられ阿波、淡路25万7000石の大名に出世。そのまま明治維新まで存続させています。

1873年(明治6年)の廃城令では存城処分になりましたが、鷲之門以外の建物が撤去されてしまいました。唯一残った鷲之門も太平洋戦争の災禍により焼失しています。

現在、城内には徳島中央公園を始めとした公共の施設が置かれています。

 

清玄坊の祟りについて

徳島城

清玄坊はこの地で修業した修験者です。現地の案内板によると清和源氏の末裔で、阿波国に入り城山に祈祷所を建て修業したとあります。

【徳島市郷土史論】にも似たような話が書かれています。

河内國丹南部丹南の住人大林某今川義元に仕へ、今川氏滅亡後、修驗道を修して勢月と號し字を寛理と稱した。

(中略)

元龜元年勢月入寂し、其の子奈月。(一説に素月)衣鉢を襲ぎ修驗の行を積むこと爲に十六年。蜂須賀氏入國して居城を渭津に定め、築城整理の爲め奈月に立退きを命じた。

徳島市郷土史論 第七章 河野時代の遺蹟遺物 第一節 三島神社の存在より

清玄坊と奈月は同人物でしょう。ここでは清玄坊で通します。

徳島城を築城する際、蜂須賀氏は周辺の人々に立退きを命じます。しかし清玄坊は頑なに拒みます。困った蜂須賀氏は彼を紙屋町に呼び出し殺してしまいました。

 

徳島城

途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石碑をたて、末代まで供養する事を誓った所、此の変事はピタリと止まったという。

現地案内板・清玄坊の由来についてより

清玄坊の息子・範月が父を弔うため地蔵尊を建立。月日が経ち石像が塵埃に埋もれたところを発見した者がこれを祀り、後に掃溜地蔵尊と呼ばれ信仰されることになりました。

掃溜地蔵尊は徳島城の南西にある瑞巌寺に現在まで安置されています。

 

終わりに

徳島城

城山の麓にある公園で阿波踊りの練習をしている人たちを見かけました。

いちち
どこに行っても殆ど風景が変わらないな…。

と嘆息する日々ですが、この時ばかりは『徳島に来たんだ!』と喜びを覚えたものです。

おしまい!



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いちちと申します。 休日の殆どを一人旅に費やしています。いつか流浪の民になって日本中を周って過ごしたい。歴史、B級スポット、心霊スポットのネタが多めな旅行記ブログです。 コメント待ってるよー!