箕輪城主の長野業正と真田幸隆の逸話【群馬の旅】

ここは高崎市箕郷町東明屋!

群馬県には土地柄それ程有名な武将がいません。全国的に有名な武将といえば南北朝時代に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞ぐらい。次点で室町から安土桃山時代かけての兵法家であり新陰流を全国に広めた剣豪の上泉信綱ですかね。

この二人だけ知っておけば「群馬の武将って誰がいるの?」と問われたときに答えられます。しかし私としてはもう一人付け加えて欲しい。それが今回の記事題材の長野業正という戦国大名です。それでは長野業正と居城の箕輪城について、そして長野業正と関りがあったとされる真田幸隆との逸話について述べて行こうと思います。

 

上州の黄斑・長野業正と箕輪城

2015-05-07 14.12.12箕輪城は1512年に長野業正の祖父、長野業尚(なりなお)によって築城されたと言われています。ちなみに1512年は日本で梅毒について初めて記録された年です。長野家は群馬西部の豪族で関東管領の山内上杉氏に属していました。

業正の代に山内上杉氏の上杉憲政が関東の北条氏康と甲斐の武田信玄にいじめられて関東を脱出し、上杉謙信に助けを求め新潟へ。このとき業正は山内上杉家から離れます。後北条氏に追従するものが多かったのですが元BOSSの憲政が上杉謙信に頼ったので義理立てで後北条氏に従わず、そのまま周辺の支配を続けます。

結果、憲政が謙信にお願いしたのか、忠義の心に動かされたのかはわかりませんが謙信の後ろ盾を得ることができ、謙信の援軍が来るまでしっかりと箕輪城を守りぬきました。

 

2015-05-07 14.21.38本丸跡。

武田氏、後北条氏、今川氏の間で甲相駿三国同盟が組まれると後北条氏の要請で武田信玄が西上野に執拗に攻めてくるようになりました。長野業正は上野国人衆を集め約2万の兵を集め、武田氏の侵攻に立ち向かいます。

最初の戦いは瓶尻(みかじり)という場所で行われました。現在の安中市、妙義山のあたりと言われています。瓶尻の戦いは武田軍の勝利で業正は殿を務め箕輪城に撤退、籠城します。 
ここから老将・長野業正が本気を出します。武田氏は時をおいて数回に渡って西上野に侵攻。

6回とか9回とか言われてますが詳細はわかりません。城に籠った長野業正は強く早朝や深夜に奇襲攻撃を仕掛け武田軍を蹴散らします。武田信玄は「爺さん強すぎ…。生きてる間は上野とれんな」と言ったとか。

 

2015-05-07 14.28.48井戸跡。

そんな業正も寿命には勝てず71歳、或いは63歳で没します。その後、三男の業盛が家督を継ぎます。業正の遺言は「わしが死んだら一里塚と変わらないような墓でいい。法要なんてしなくていい。 敵の首を供えよ。絶対降伏するな。するくらいなら潔く死ね。それこそが私に対する孝行だ。」完全にクレイジー爺さんです。

そして武田信玄はこう言いました。「やっと爺さんが死んだ。これで上野は俺のもんだ。」
息子の業盛も父親譲りの武勇があったようですが、再び攻めてきた武田信玄に負け、遺言通り潔く自決しました。(一回は防衛成功しています。)

箕輪城は武田氏が入城、武田氏が滅びると織田氏の滝川一益が入城。織田信長が本能寺の変で死去すると後北条氏が滝川一益を攻め箕輪城を落とします。後北条氏が小田原征伐で滅ぼされると今度は徳川家康が転封してきます。家臣の井伊直正が入城しましたが近くの高崎城に移動し箕輪城は廃城になってしまいました。

 

2015-05-07 14.46.36長野業正と関りがあった人物に真田幸隆という人物がいます。真田幸隆は六文銭で有名な真田氏の礎を築いた人です。真田昌幸の父、信之・幸村の祖父にあたります。
長野県東御市の豪族、海野一族出身の幸隆は、信濃へ侵攻してきた武田信虎、村上義清軍に海野平の戦いで敗北し所領を一時期失います。その際に長野業正を頼りしばらく世話になったと伝わっています。
真田幸隆は山本勘助に武田信玄を紹介されてこっそりと業正のもとを去ろうと一計案じます。
病気になって働けないから少し休ませてくださいと家に籠り逃げる準備をします。ところが長野業正から使者がやってきて「病気を治すために薬を探しにいかれよ。」と伝え、馬を与えます。「あっ?もしかしてバレてる?」と考えた真田幸隆は「結構しんどいので薬なんて探しにいけません。」と伝えますが長野業正に「はよ、いけや!」と急かされ、その日に信州に向けて出発(逃走)。
脱出に無事成功し安堵していると、後ろから何やら人影が…。なんと妻子、部下がそこにいました。ついでに家具も。全部おいてきたにも関わらず。そこで手紙を渡されます。
「幸隆へ。武田信玄は若く優秀な男だ。だがしかし、わしが箕輪にいる限りは碓氷川を越えて馬に草を食わせられると思うなよ。業正より」全て見抜かれていたことに真田幸隆は呆然と立ち尽くしたそうです。

2015-05-07 14.43.19左右で積み方違います。石垣を組んだ時代が違うそうです。
もう一つ逸話があります。長野業正の晩年、真田幸隆がお見舞いにきました。 
業正:「お前すごいな。武田に行ってからの活躍お見事!箕輪も近いうちに取られそうだな。わしもそろそろ死にそうだし。そうだ昔のよしみでいいこと教えてやろう。」 
幸隆:「なんですか???」 
業正:「この辺りを攻略するなら、まずは吾妻を抜けて利根方面を攻めるといい。沼田は隙だらけだぜ。」 
幸隆:「誰の所領ですか?」 
業正:「沼田顕泰だ。相続争いで家中が乱れてるからな。わしがやってもいいけど多分間に合わんし、息子では荷が重い。」 
幸隆:「ありがたき幸せ!いつか沼田を落としてみせましょう。」
と感謝し業正のもとを去りました。そして後々、沼田城は真田氏のものになりました。この二つの話は多分創作だと思います。夢があって楽しいですけどね。マニアックな内容でしたが書いていて楽しい記事でした。

おしまい!



左右で積んだ時代が違う石垣

2 件のコメント

  • はじめまして。面白いエピソードを読ませていただいてありがとうございます。
    ところで、長野業政と真田幸綱のエピソードは、何かを読まれたのでしょうか。それとも、あなたの創作ですか? 出典があるのなら教えてください。詳しく読んでみたいと思います。

    • juncoさん
      はじめまして。当ブログ読んでいただきありがとうございます!
      二人のエピソードは江戸後期~明治の「名将言行録」という歴史本に書かれています。インターネットで読むことが出来ます。ただ信憑性があまりない書物なので歴史的にはあまり価値がないといわれているようです。

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