箕輪城主の長野業正と真田幸村の祖父・幸隆が知り合いだったという逸話について【群馬の旅】

群馬出身の武将といえば南北朝時代に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞や室町時代後半から安土桃山時代かけての兵法家であり新陰流を全国に広めた剣豪の上泉信綱、そして今回ご紹介する箕輪城主の長野業正あたりが有名です。

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他に挙げるなら新田金山城の由良成繁もなかなか有名かな?

それでは箕輪城の風景と共に『長野業正の活躍』『業正と真田幸隆の間柄を表す逸話』について見ていくことにしましょう。

真田幸隆は真田昌幸の父、信之・幸村兄弟の祖父にあたる人物です。幸隆は信濃出身で武田信玄に仕え群馬県吾妻町にある岩櫃城を攻め落とし拠点にしていた時期があります。

 

箕輪城の場所

かなり説明しにくい場所にありますのでgoogle mapで『箕輪城跡』と検索して向かいましょう。

 

上州の黄斑・長野業正と箕輪城

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箕輪城は1512年に長野業正の祖父、長野業尚によって築城されたと伝わります。

長野氏は群馬西部の豪族で関東管領の山内上杉氏に属していました。

業正の代に関東管領・上杉憲政が北条氏康と武田信玄にいじめられ、上杉謙信を頼り関東から新潟へ逃げ落ちます。

このとき業正は山内上杉氏から離れます。後北条氏に追従する豪族が多いなか業正は元主人の憲政に義理を立て後北条氏に従わず、そのまま箕輪城周辺の支配を続けます。

 

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武田氏、後北条氏、今川氏の間で甲相駿三国同盟が組まれると後北条氏の要請で武田信玄が西上野に執拗に攻めてくるようになります。

長野業正は上野国人衆2万の兵を集め、武田氏の侵攻に立ち向かいます。

最初の戦いは瓶尻(みかじり)という場所で行われました。現在の安中市、妙義山のあたりと言われています。瓶尻の戦いは武田軍の勝利で業正は殿を務め箕輪城に籠城します。ここから老将・長野業正が意地の戦いを見せます。

信玄は数回に渡って西上野に侵攻します。

いちち
6回とか9回とか言われてますが詳細はわかりません。

城に籠った業正は強かった。早朝や深夜に奇襲攻撃を仕掛け武田軍を蹴散らします。

武田信玄:『爺さん強すぎ…。生きてる間は上野とれんな。』

 

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そんな業正も寿命には勝てず亡くなってしまいます。

71歳、若しくは63歳で没したといわれています。

そして三男の業盛が家督を継ぎます。

業正の遺言は

『わしが死んだら一里塚と変わらないような墓でいい。法要なんてしなくていい。 敵の首を供えよ。絶対降伏するな。するくらいなら潔く死ね。それこそが私に対する孝行だ。』

いちち
息子可哀そう…。

業正が死んだと聞いた武田信玄は言いました。

武田信玄:『これで上野は俺のもんだ。』

息子の業盛も信玄相手に奮戦しましたが、最後は追い詰められ業正の遺言通り潔く自決しました。(一回は防衛成功しています。)

その後、箕輪城は武田氏が入城、武田氏が滅びると織田氏の滝川一益が入城します。

織田信長が本能寺の変で死去すると後北条氏が滝川一益を攻め箕輪城を落とします。

後北条氏が小田原征伐で滅ぼされると今度は徳川家康が関東に入ります。家臣の井伊直正が箕輪城に入城しましたが高崎城に移動し箕輪城は廃城になりました。

 

長野業正と真田幸隆 逸話その一

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長野業正と真田幸隆の関係を表す逸話が残っています。

序文でも少し説明しましたが真田幸隆は六文銭で有名な信州真田氏の礎を築いた人です。真田昌幸の父、信之・幸村の祖父にあたります。

今から紹介する2つの逸話は江戸後期~明治に書かれた『名将言行録』にあります。信憑性が薄い史料といわれているのであまり真に受けないでください。でも、ロマンがあって面白いです。

長野県東御市の豪族、海野一族出身の幸隆は、信濃へ侵攻してきた武田信虎、村上義清軍に海野平の戦いで敗北し所領を一時期失います。

その際に長野業正を頼りしばらく世話になったと伝わっています。

真田幸隆は山本勘助に武田信玄を紹介されたため、こっそりと業正のもとを去ろうと一計案じます。

幸隆は『病気になって働けないから少し休ませてください。』と家に籠り逃げる準備をします。

突然、長野業正の使者がやってきて『病気を治すために薬を探しにいかれよ。』と伝言し馬を与えます。

『あっ?もしかしてバレてる?』と考えた真田幸隆は『しんどいので薬なんて探しにいけません。』と伝えますが長野業正に『うるさい!はよ、いけや!』と急かされ、止む無くその日に信州に向けて出発(逃走)しました。

自身は脱出に成功しましたが何もかも置いて出てきてしまいました。

しばらくすると後ろから何やら人影が…。『追手か…。万事休す。』と思ったら。

なんとそこには妻子と部下が。ついでに家具もあるではありませんか。

そこで使者から手紙を渡されます。

『幸隆君へ。武田信玄は若く優秀な男だ。だがしかし、わしが箕輪にいる限りは碓氷川を越えて馬に草を食わせられると思うなよ。業正より』

全て見抜かれていたことに真田幸隆は呆然と立ち尽くしたそうです。

 

長野業正と真田幸隆 逸話その二

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もう一つ逸話。

長野業正の晩年、真田幸隆がお見舞いにきました。 

業正:『お前すごいな。武田に行ってからの活躍お見事!箕輪も近いうちに取られそうだ。わしもそろそろ死にそうだし。そうだ昔のよしみでいいこと教えてやろう。』

幸隆:『なんでしょう?』 

業正:『この辺りを攻略するなら、まずは吾妻を抜けて利根方面を攻めるといい。沼田は隙だらけだぜ。』

幸隆:『誰の所領ですか?』 

業正:『沼田顕泰だ。あそこは相続争いで家中が乱れてるからな。わしがやってもいいけど多分間に合わず死ぬ。かといってうちの息子では荷が重い。』

幸隆:『(え?いいのそんなこと教えちゃって?)で…では、いつか沼田を落としてみせましょう。』

と感謝し業正のもとを去りました。

そして後に沼田城は真田氏のものになりました。

 

終わりに

群馬にもすごい武将がいたということをお伝えしたくて書きました。

おしまい!



箕輪城

4 件のコメント

  • はじめまして。面白いエピソードを読ませていただいてありがとうございます。
    ところで、長野業政と真田幸綱のエピソードは、何かを読まれたのでしょうか。それとも、あなたの創作ですか? 出典があるのなら教えてください。詳しく読んでみたいと思います。

    • juncoさん
      はじめまして。当ブログ読んでいただきありがとうございます!
      二人のエピソードは江戸後期~明治の「名将言行録」という歴史本に書かれています。インターネットで読むことが出来ます。ただ信憑性があまりない書物なので歴史的にはあまり価値がないといわれているようです。

  • いちちさんこんばんわ
    Twitter 沼田藩@NPO-GLUBTON です。
    先日の水曜日、箕輪城跡に行ってきました。
    以前からいってみたかったところです。

    実は、現在みなかみ町新治布施に【箕輪】集落があります。
    みなかみ町知人の話では、箕輪城の人達が逃げてきて、
    集落入口に権現神社奉り居住地を築いたそうです。
    静かに暮らしたいという意味だそうですが、
    現在でも『正月には餅は食わず、節句には鯉のぼりを立てず(旗さしものは立てない?)』の慣わしを守っています。

    権現神社は後で確認してみたいと思っています。
    真偽の程はわかりませんが、ロマン溢れる話だと思っています。

    • 沼田藩@NPO-GLUBTONさんこんにちは!

      親の実家が沼田だからなのか、みなかみの箕輪集落の名前を聞いたことがあるような気がします。

      >『正月には餅は食わず、節句には鯉のぼりを立てず(旗さしものは立てない?)』
      こんな文化が残っているなんて…。

      そこに長野業正の子孫が残っていたりして。ロマンありますね!

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