英雄・東郷平八郎の生涯!彼のゆかりの地を訪れて【鹿児島の旅】

東郷平八郎

戦艦・三笠 館内展示写真より

『陸の大山、海の東郷』『東洋のネルソン』『アドミラル・トーゴー』

東郷平八郎は近代日本の窮地を救った英雄です。

『陸の大山』の大山巌については別の記事で紹介する。

東郷平八郎は大日本帝国海軍・連合艦隊を率い、大国ロシアと死闘を繰り広げ、遂には日本を勝利に導きました。

いちち
今回は主に小笠原長生の【聖將 東鄕平八郎傳】を引用しつつ彼の生涯を追っていきます。

小笠原長生は東郷平八郎に傾倒して彼を神格化した人物です。

東郷さんは実際に神懸った実績を持った偉人なので、この書籍を読んでも余り違和感を感じませんでしたが、もしかしたら『なんか偏ってるなぁ。』と思う方もいるかもしれません。

ま、違和感を感じた方は他の文献も参考にして調べたら宜しい。新しい発見があるかもね。

 

誕生

東郷平八郎

君は久しく海軍に從事して航海術に長し意氣慷慨にして所謂九州男兒姿貌を得たり

日清韓三国英名伝 東鄕平八郎君略傳より

君は長い間海軍に従事して航海術に長けていて、気概に溢れ、いわゆる九州男児の姿かたちを持っている

1848年(弘化4年)、東郷平八郎は鹿児島城下の加治屋町に生まれました。東郷平八郎誕生地の案内板に『仲五郎といった幼少の頃から、芯の強い子として西郷隆盛の次弟吉次郎(ママ)に可愛がられました。』とあります。また西郷隆盛の末弟である小兵衛に漢籍(陽明学)を学んだという文献も見受けました。

西郷隆盛と約20歳離れています。きっと尊敬の対象として、その大きな背中を見て育ったのでしょう。

 

初陣・薩英戦争

生麦事件が原因で起きた薩英戦争が東郷平八郎の初陣です。この戦いは1863年に起きていますので、14歳の若さでイギリスと刃を交えたということになります。

イギリス艦隊のアームストロング砲から放たれる砲弾が薩摩の町を破壊する戦況を見て彼は何を想ったでしょうか。

大將東鄕は、少年時、則ち、吾が海防の先進國に生れたるなり。先進國に生れたるは、則ち、彼をして、速かに身を海軍に投じ、一世の先頭を壓して、能く、海軍の大先輩の一人となるに至れりし素地を爲すものならずんばあらず。

横山健堂 著 大將東鄕 薩英戰爭に於ける東鄕平八郎より

東郷平八郎は、少年の時、すなわち、日本国の海防の先進国に生まれた。先進国に生まれたので、彼は速やかに海軍に身を置き、時代の先頭を押さえて、立派に海軍の大先輩の一人となるに至り、海軍の下地をつくった。

 

戊辰戦争へ従軍

東郷平八郎

戊辰戦争と言えば陸の戦いが目立ちますが、海の戦いも行われていました。

1868年1月(慶応4年)の阿波沖海戦では薩摩藩軍艦の春日の乗員として旧幕府軍と戦っています。

直ちに艦内の配置が定められた。卽ち、東鄕平八郎は三番司令官として左舷四十斤施條砲を掌り、

聖將 東鄕平八郎傳 阿波沖海戰の花形より

とあります。施條砲はライフル砲のことです。

両軍とも多くの砲弾を撃ち合いました。しかし殆どが当たらなかったと言われています。春日丸の目的は敵の撃破ではなく鹿児島に帰ることだったので、無理な戦闘はせず鹿児島に帰還しました。

新政府軍が東征に乗り出すと東郷は春日に乗り越後(新潟)まで遠征。そこで弟の東郷実武が亡くなったことを知ります。実武は会津若松を攻略している最中、病に倒れました。

西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城となります。ところが幕臣の榎本武揚は納得がいかず艦隊を引き連れ北海道へ向かい函館・五稜郭を占領します。

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東郷平八郎

函館を巡る新政府軍と旧幕府軍の戦いを箱館戦争と呼びます。この戦いで2つの海戦が行われています。

宮古湾海戦と箱館湾海戦です。

 

宮古湾海戦

宮古湾海戦は現在の岩手県宮古市の沖で行われました。

旧幕府軍は主力であった軍艦・開陽を事故で沈没させてしまいます。戦力が激減してしまった榎本武揚は苦肉の策で新政府軍の甲鉄艦の奪取作戦を実行。旧幕府軍の回天は奇襲に成功するも、新政府軍の猛反撃を受け撤退して終わります。

東鄕元帥は、今でも時々當時を顧みて、『甲賀源吾といふ男は天晴れな勇士であつた』と、口をきはめて嘆賞してゐるが、全く甲鐵襲撃の一戰は、明かにわが日本武士の覺悟を物語るものではあるまいか。

彼は、僅かに一艦をもつて、八艦の中に突撃し、機略縦横よく奮鬪し、甲賀の如きは、最後の血の一滴まで奮戰し、また官軍においても、敵の不意打ちに對して、よくこれを防ぎ、慓悍無比の敵をして、遂にその所期の目的を遂げさせなかつた。

聖將 東鄕平八郎傳 宮古港の血戰より

 

箱館湾海戦

箱館湾海戦は戊辰戦争最後の海戦です。旧幕府軍の軍艦3隻(回天、蟠竜、千代田形)が最後の抵抗を試みます。

千代田形は箱館港で座礁(自滅)して新政府軍に拿捕されます。回天は砲撃を受け大損傷の後、自ら座礁させ浮き砲台となりました。蟠竜は新政府軍の朝陽を撃沈しますが、多勢に無勢。応戦も虚しく浅瀬に乗り上げ船員たちは退却しています。

こうして新政府軍が制海権を得、旧幕府軍が立て籠もる五稜郭に砲撃を加えます。そして榎本武揚の降伏により箱館戦争(戊辰戦争)は終結します。

 

海軍に出仕する

東郷平八郎

一體、東鄕元帥が初めて政府の海軍に出仕したのは、明治三年十二月十一日で、兵部省よりの辭令には、

『龍驤艦見習士官仰付られ月俸拾四圓下され候事』とある。

これが我が聖將が日本海軍に足を踏入れた第一歩で、時に年齒二十四歳であつた。然るに居る事僅に二ヶ月餘にして翌四年二月二十二日、更に兵部省より、『今般海軍修行の爲め英國へ差遣はされ候事』との辭令を受け、(後略)

聖將 東鄕平八郎傳 英國留學竝にネルソン提督との因緣

いちち
月の給料14円って、今の価値だとどれくらいの金額になるのだろうか?

東郷平八郎は1871年(明治4年)から1878年(明治11年)までイギリスに留学しています。この間に地元の鹿児島で西南戦争が発生しています。西郷隆盛率いる薩軍が新政府に物申すという大義名分で挙兵したわけですが、鎮圧され薩軍は壊滅します。

この戦いに二人の実兄が薩軍として参加していました。内、三男の小倉壮九郎は最後まで西郷に付き従い鹿児島の城山で戦死しています。東郷平八郎はイギリス留学していたため新政府の黎明期の混乱に巻き込まれずにすみました。

帰国後はとんとん拍子に出世。大尉になったと思うと一年程で少佐に昇進。迅鯨、天城の副長に任命され役目を立派に果たしたいう話が伝わっています。1881年(明治14年)、35歳になった彼は旧薩摩藩士の海江田信義の長女・てつ子と結婚します。

清仏戦争の台湾基隆戦(1885年)では仏軍・クルベー提督の命を受けたジョゼフ・ジョフルの護衛、案内の下、天城艦長として観戦したと回想しています。

南清の清佛戰爭視察を終へて歸朝した東鄕少佐は、明治十八年六月二十日海軍中佐に任ぜられ、翌年七月十三日には、武官々等の改正によつて大佐に昇進し、實に順風に帆をあげて航海するやうな幸福に恵まれてゐた。

聖將 東鄕平八郎傳 病難時代の猛勉强より

面白いように出世していく東郷平八郎。

しかし大佐に就任してからの約3年間は病気に苦しみます。このとき温泉などで身体を休めながら国際法や外交の書籍を読み漁り猛勉強しました。

 

この數年間における東鄕元帥は、あるひは大和艦長に補せられ、あるひは淺間艦長兼横須賀鎮守府兵器部長となり、さらに比叡艦長となつたが、何れかといへば失意沈滞の時代といふべきであろう。

しかるに、明治二十三年の初め頃から、愈々健康をとり戻し、文字通り捲土重來の勢をもつて、進出してきた。卽ち同年五月十三日には、吳鎭守府參謀長に補せられた。

聖將 東鄕平八郎傳 病難時代の猛勉强より

とあります。

 

浪速艦長としてハワイへ

東郷神社

ともあれ病気が快方に向かい以前の活気に戻った東郷平八郎は浪速の艦長に就任。

1893年(明治26年)に発生したハワイのクーデターでは現地日本人の保護を目的として浪速に乗り込みハワイへ向かいました。

ハワイでは犯罪を犯して捕まっていた在留日本人を匿ってハワイ仮政府と揉めたり、ハワイ仮政府維持の一周年記念に『礼砲を以て祝福せよ。』という要請を頑なに拒んだりしています。

 

日清戦争・高陞号事件について

1894年(明治27年)に起きた日清戦争で東郷平八郎はその名を世界に轟かせました。

日清戦争開戦のきっかけとなった豊島沖海戦に浪速艦長として参戦しています。この海戦で東郷平八郎を語るに外せない高陞号事件が発生します。

清国艦船を追撃する浪速が途中で英国旗を掲げる商船を発見します。この商船を高陞号といいます。怪しんだ東郷艦長は高陞号を停め、人見善五郎大尉に臨検を行わせます。

高陞号には1100名の清兵と大砲などの兵器が多く積んであったそうです。

この船は【印度支那汽船会社の代理店・ジャーディン・マセソン社】の所有船でした。人見大尉が英国人船長に尋ねると『清国に雇われ清兵と武器を輸送していた』と返答。そして『浪速に随行するように』と船長に命じ一旦は承諾します。

人見大尉は東郷平八郎に事の顛末を説明し高陞号に『錨を上げ、直ちに付いてこい』と信号を発信すると、高陞号から『相談があるからボートを送って欲しい』と返答がありました。

再び人見大尉が高陞号に向かうと英国人船長は清兵に脅され身動きが取れなくなっていました。

清兵の反抗的態度は強くなる一方で随行は疎か英国人船長や船員の命すら怪しい状況に。ここで彼は決断します。

艦橋に立つて、腕組みをしながら、これを凝視してゐた東鄕艦長は、遂に最後の決心をしたらしく、物事に動じない彼の顔にも、容易ならぬ決斷の氣が漲つた。

その決斷とは他ならぬ、高陞號撃沈である。

聖將 東鄕平八郎傳 高陞號撃沈事件より

東郷平八郎の命により水雷と砲弾が高陞号に撃ち込まれ、やがて沈没します。

その際、英国人船長や船員の殆どは日本軍のボートに救われたと云います。

高陞号事件は日本を震撼させました。超大国・イギリスがブチ切れたためです。当時の状況でイギリスを敵に回したら日本に勝ち目はありません。日本国内に絶望的な空気が流れたようです。

さて、どうなったか?

ちょっと長いですが【聖將 東鄕平八郎傳】に書かれている公法学の権威者・ホルラントの論文の大要を引用します。

高陞號が撃沈された時は、すでに戰爭の始つた後である。蓋し、戰爭といふものは、豫め宣告することなくして、これを始めても、少しも違法の措置といふことはできない。このことは、英國及び米國の法廷で、幾度となく確定せられたところである。

さればたとへ高陞號の船員は、初め戰爭が旣に起つたことを知らなくても、日本の士官がわが船に乗りこんで來た時、これを承知したものと見做さねばならぬ。

この時に當つてその船が英國の国旗を掲げてゐたとゐないとは、敢て注意するに足らない一些事に過ぎない。

當時日本の軍艦は、捕獲の目的をもつて、高陞號に兵員を乗船せしむることは、たうてい實行できないといふ見込みをもつてゐたので、日本の艦長は、高陞號をその命令に從はしむるためには、いかなる暴力を用ゐるとも、それは固よりその權内にあることを知らねばならぬ。

そもそも、高陞號には、日本軍攻撃のため派遣せられた遠征の一部隊が乗船してゐたので、日本人がその目的地に達することを防止するためには、これを撃沈したことも、正當の所爲といはねばならぬ。

また沈沒後に救助せられた船員は、何れも規則通り、自由の身となることができたので、この點もまた日本の行爲は、國際法に違反したものといふことはできない。

故に日本政府は、これがため決して英國に對するの義務なく、また船主及び溺死せる歐人等の家族は、日本に對して、損害を要求する権利はない

聖將 東鄕平八郎傳 高陞號撃沈事件

失意沈滞の時代に温泉で国際法の勉強に励んだ成果がここに現れたのです。

ホルラント等の論文によって高陞号事件の混乱は収束し、悪人のレッテルを貼られかけた東郷は英雄へと様変わりします。

いちち
国際法を理解していても、瞬時にこの決断を下せる人間がどれだけいるだろうか。

次いで行われた黄海海戦で清国の北洋艦隊を打ち負かし、陸軍も鴨緑江作戦、旅順口の戦いで清軍から勝利を治め、陸と海から威海衛湾(威海衛の戦い)に立て籠もる北洋艦隊を包囲し降伏させました。

威海衛の戦いの後に大佐から少将に昇進し、常備艦隊司令官に任じられ軍艦・吉野に乗艦。それから台湾の西にある澎湖列島の占領戦で奮戦。そして、清講和条約(下関条約)が結ばれ戦争は終結します。

 

義和団事件が起こる

明治三十三年六月十九日、常備艦隊司令長官東鄕中將(明治三十一年五月、海軍中將に任ぜらる)は旗艦常盤に坐乗して、高砂、秋津洲等の諸艦を率ゐて、清國大沽に急行した。これは、清國における義和團事變が、いよいよ重大性を帯びてきたからである。

聖將 東鄕平八郎傳 義和團事件

義和団事件は清国の義和拳という団体が起こした反乱です。排外主義を掲げるこの団体に清国が何故か味方し列国に宣戦布告したため事が大きくなってしまいました。

義和団事件についての詳細は割愛します。

【聖將 東鄕平八郎傳】に清国大沽に駐留している東郷平八郎のもとにロシア海軍のアレクセーエフが訪れるというシーンがあります。アレクセーエフは彼から情報を抜き出そうとしますが、聞き上手に徹したため気分を良くしたアレクセーエフが逆にあれこれと語り始めたそうです。

これにより『ロシアとの戦争は避けられない。』と東郷は悟ったとあります。

 

日露戦争での東郷

戦艦三笠

東郷平八郎が軍神やら英雄と語られる由縁は、やはり日露戦争、特に日本海海戦での活躍があったからでしょう。

【連合艦隊】及び【第一艦隊】の司令長官に任命された東郷はロシア海軍を打ち破り、日本を窮地から救いました。歴史に『If』はナンセンスかもしれませんが、ここで負けていたら今の日本は確実にないです。

1904年(明治37年)2月6日午前1時、連合艦隊旗艦・三笠の将官室に幹部が集い、東郷平八郎は海軍大臣から伝達された勅語を読み上げます。

午前9時、連合艦隊は佐世保港から出陣。

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旅順口外での日本軍の奇襲攻撃によりロシアとの戦いの火蓋が切られます。

 

旅順口の戦い/旅順港閉塞作戦

露國の太平洋艦隊に對する東鄕司令長官には、二重の大責任が雙肩に懸つてゐた。卽ち其の一は眼前の大敵を撃滅する事で、其の二は早晩東洋に廻航し來るものと認むるを以て至當とするバルチツク艦隊に對する事である。

聖將 東鄕平八郎傳 對露戰役(上)(旅順口の攻略)より

制海権を得たい日本軍は旅順港を拠点とする旅順艦隊(太平洋艦隊)を港内に閉じ込め、手薄な場所から陸軍を上陸させ旅順要害を攻略し、陸と海から旅順艦隊を殲滅するという作戦を実行します。

この時、港を塞ぐために採られた作戦を【旅順港閉塞作戦】と呼びます。艦船を港の入口部分で自沈させ封鎖させるというものです。三度に亘って閉塞作戦は行われましたが、全て失敗に終わっています。

二度目の閉塞作戦で戦死した広瀬武夫少佐の物語は劇的で現在まで語り継がれています。

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日本軍は敵将・マカロフを討ち取るなどの戦果を上げましたが、互いに決定的な結果は得られず膠着状態となりました。そうこうしているうちにヨーロッパ・バルト海からバルチック艦隊が援軍として出征するという情報が入ります。

立て籠もる旅順艦隊とバルチック艦隊が合わされば戦力は倍近くになり日本の敗北は必須です。早期の対策が練られることとなります。

 

戦艦三笠

それまでほぼ独力で太平洋艦隊の相手をしていた連合艦隊ですが、バルチック艦隊の件がありますので悠長に構えていられません。そこで陸上からも砲撃して旅順艦隊を叩く必要が出てきました。

そこで旅順要塞を攻略するため陸軍大将・乃木希典率いる第3軍が編成されます。旅順攻囲戦と呼ばれるこの戦いはロシア軍の降伏によって終わります。両軍ともに夥しい戦死者、負傷者を出した死屍累々の激戦でした。

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黄海海戦/蔚山沖海戦

第3軍の旅順要塞攻略が進む中、旅順艦隊への攻撃も行われていました。占領地から行われた観測砲撃により太平洋艦隊は被害を受け、このまま旅順港に留まっていられないと判断しウラジオストクへの脱出を開始します。

これを連合艦隊が追撃する形になり黄海海戦が始まります。

東郷平八郎は黄海海戦で【丁字戦法】という敵の行く手を塞ぎ集中砲火を浴びせる戦術を採用しますが、うまく敵船を捕らえられず逃げられてしまいます。

ウラジオストクに逃げられてしまっては全てが水泡に帰してしまうと意地の追撃を開始。発見後、激しい撃ち合いの末、ロシア旗艦・ツェサレーヴィチに大損害を与え敵艦隊を四散させ再起不能にします。

また、ウラジオストクから出航してきたウラジオストク巡洋艦隊を第二艦隊・上村彦之丞中将が破っています。これを蔚山沖海戦といいます。

されば戰後に至り秋山參謀は余に斯う語つた。

『世人は槪ね日本海海戰ばかりを大騒やつて、動もすると黄海海戰などは名さへも忘れがちであるのは遺憾千萬だ。成る程日本海海戰は如何にも花々しく、殊に敵全艦隊を撃滅したのであるから、それのみが世人の眼に映ずるのも無理ならぬ次第だが、東鄕大將としては黄海海戦の際の方が苦心の度は多かつたらうと思ふよ。のみならず此の海戰の實地の經驗が、日本海海戰として彼の如き大功を奏させた主なる原因をなしてゐると考える』

聖將 東鄕平八郎傳 對露戰役(上)(旅順口の攻略)より

 

日本海海戦

東郷平八郎

何とか制限時間内に旅順艦隊を壊滅させました。

しかし、まだバルチック艦隊が残っています。これを逃してウラジオストクに入られてしまうと戦力を再強化され、かなりやっかいです。完全な制海権がなければ輸送が難しくなり、中国大陸での戦いが厳しくなってしまう恐れがありました。

さて、バルチック艦隊は何処から来るのか?

対馬海峡を通るという情報を得ていましたが確実ではありません。もしかすると太平洋側に廻り津軽海峡若しくは宗谷海峡を通過してロシア領に入る可能性もあったのです。

連合艦隊は鎮海湾を拠点としバルチック艦隊を待ちましたが『対馬海峡は通らない。』という意見もあり東郷平八郎は『想定の時間に来なければ北上する。』と大本営に伝えています。

そして、仮装巡洋艦・信濃丸から敵艦発見の通報が入ります。

ヒヒヒ「yr」

敵ハ對州東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ

信濃丸

アジア歴史資料センター 日本海海戦電報報告1より

バルチック艦隊は対馬海峡から日本海に入ってきたのです。

 

東郷神社

ただちに東郷は『敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』と大本営に打電。即座に出撃する第一、第二艦隊。

日本海海戦の開戦です。

連合艦隊旗艦・三笠は『皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ』という意味が込められたZ旗を掲げ全艦隊を激励します。

この戦いは日本の圧勝で終わります。

【Wikipedia:日本海海戦】によると日本の戦死者は117名、戦傷583名。対するロシアは戦死4830名、捕虜6106名となっています。

日本は水雷艇が3隻沈没しただけですが、ロシアは全38隻のうち21隻が沈没、6隻が拿捕されています。

 

日本海海戦での両軍の動きは他で詳しく説明されていますので、当記事では割愛します。代わりに日本海海戦に関する2つの引用文を紹介致します。

此の間も外國の或名士が東鄕元帥の戰術を評して

『日本海海戰に於ける東鄕大將の戰術程不思議なものは無い。冐險のやうで堅實、堅實のやうで冐險、加之部下各隊若くは各艦との關係も、統一的かと思ふと獨斷を許してゐるし、獨斷的かと視ると統一が保たれてゐるので、鷗洲各國古來の名將に例を取らうとしても、これに適合するものが無い、本當に妙戰術と言ふの外無いが、さるにても何處から範を得たものだらう?』

と甚く不思議がつてゐた。

聖將 東鄕平八郎傳 對露戰役(下)(日本海海戰)より

いちち
『【外國の或名士】って誰なんだ?東郷平八郎を崇拝する作者だから持ち上げるための作り話の可能性もあるな。』と若干訝しく思いましたが、まぁいいや。

これに対し秋山真之参謀の言葉で解答しています。

『東鄕大將がかねて策定されました戰術は、我が海軍にて所謂『丁字戰法』『乙字戰法』と稱ふるもので、是また別段新奇の戰法ではなく、鷗米諸國は知らず我が國にては、遠き數百年水軍の昔より此の戰術はあつたのであります。

卽ち當日東鄕大將の取られたる戰法が『丁字戰法』で、敵列に對し其の先頭を壓し丁字に運動されました。

(中略)

『乙字戰法』とは卽ち我が二隊にて敵の正面及び側面より十字火を喰はす戰法で、昔の水軍の戰法では之を正奇の二隊とし、正の隊が正面に當れば奇の隊は側面より懸ると云ふ主旨のものであります。

卽ち此處では第一戰隊が正位を占め第二戰隊が奇位を取つて戰つたと云ふべきで、陸海戰術の大原則たる、正を以て合い奇を以て勝と云ふことは、此の如く微妙の點にまで應用されまして、古の兵家の格言は眞に爭はれぬ眞理を込めて居るかと思はれます。』

聖將 東鄕平八郎傳 對露戰役(下)(日本海海戰)

このあと作者は日本古来からある海賊(水軍)を解説し始め、その戦法と日本海海戦を照らし合わせて紹介しています。

大変興味深い箇所ですが、余りにも長くなってしまうため引用はやめておきます。【聖將 東鄕平八郎傳】は国立国会図書館デジタルコレクションで観覧出来ます。367頁から382頁が該当頁なので気になる方は読んで下さい。

日本海海戦の後、海軍大将に昇進。

日露戦争は日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ日本の辛勝という形で終戦を迎えます。

 

終わりに

東郷神社

1934年(昭和9年)5月30日、東郷平八郎は86歳でその生涯を終えます。以下は彼がその功績により授かった位や勲章の一覧です。

・位階【従一位】

・勲位【大勲位】

・功級【功一級】

・爵位【侯爵】

・最終階級【元帥海軍大将】

英雄としてありとあらゆる栄誉を手に入れました。

これで話が終われば気持ちよく筆を置けるのですが…。最後に一つだけ触れておきたいことがあります。

晩年、東郷平八郎は海軍の元老的なポジションにいました。

1930年(昭和5年)に行われたロンドン海軍軍縮会議、これは列強海軍の補助艦艇の保有量に関する会議なのですが、決定した条約に従うべきという【条約派】とそれに反対する【艦隊派】という対立構造が出来てしまいました。

東郷平八郎は【艦隊派】寄りの意見だったのか、【艦隊派】の軍人たちはそれを利用して軍政に干渉し始めました。本人に介入する意思があったのかは知りませんが、都合よく利用されてしまったのです。

いちち
東郷さんも『私にはわからん。』くらいのスタンスでいればよかったのかもしれませんが、真面目な性格が災いしてか、意見を求められ正直に思うところを伝えたのでしょう。

そもそも勉強不足な私には【条約派】【艦隊派】のどちらが正しいのかわかりません。まぁ、これは派閥の正否ではなく東郷平八郎を政治利用したことと、結果としてそれに乗っかる形になってしまったことが問題なのです。

英雄の言動は未来を揺るがすのです。

これで終わります。

途中に載せた幾つかの画像は私が訪れた東郷平八郎ゆかりの地です。画像の詳細を知りたい方はコメントにでも書いていただければ返答します。

おしまい!



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