浦戸城の歴史について!浦戸一揆と一領具足・死生知らずの野武士なり【高知の旅】

浦戸城

浦戸城は高知県の名所・桂浜の背後の小高い丘にありました。主郭部分には坂本龍馬記念館、国民宿舎・桂浜荘が建っています。

記念館の駐車場脇に浦戸城の石碑があり、遺構は石垣、堀切、井戸跡などが残っています。

天守台に登ると八幡様と大山祇神が祀られる小さな祠が安置されていました。

それでは、浦戸城の歴史を見ていきましょう。

 

浦戸城の場所

浦戸城

浦戸城は桂浜のすぐ近くにあります。ナビに【坂本龍馬記念館】と入力し向かいましょう。

記念館のホームページに詳しいアクセス方法が紹介されていますので↑にリンクを貼っておきます。

 

浦戸城の前身

浦戸城

浦戸城は朝倉城(高知市朝倉・県史跡)を本拠としていた本山氏が、16世紀の初め支城として築いたものである。その後、天正19(1591)年ごろ長宗我部元親が本格的な拠点とし、以後10年間は長宗我部氏の本城となった。

現地案内板より

鎌倉時代後期には当地の豪族が砦を築いていたという説もあるようです。

 

堅田小三郎経貞申正月七日於浦戸津野三宮一円仁致誅罸守護目代并竹田若党長岡次郎太郎令分捕切捨一人仕之畢曽我三郎左衛門尉大黒入道此人々被検地之上者賜一見状可備後日支証候以此旨可有御披露候恐惶謹言

建武三年正月八日

進上御奉行所

佐伯経貞

承了

家時

土佐国蠧簡集拾遺 佐伯文書より

これは南北朝時代の書簡。日付は建武3年(1336年)。

北朝方の堅田(佐伯)経貞という人物が浦戸で起きた出来事を伝える文書です。

正月七日、浦戸に於いて、津野・三宮・一円に誅罰を致した。守護・目代併せて竹田の若党である長岡次郎太郎をひっ捕らえて一人切り捨てた。(以下略)
佐伯文書の原文、及び土佐の堅田一族(二)を参考にして引用しました。

すぐ北にある大高坂城を南朝方が守っていたため、北朝方はここを攻め取る必要がありました。南朝方も浦戸を落とされると敵の侵入を防げなくなってしまうため必死に守ったはずです。恐らく、砦を建て守りを固めたのではないでしょうか?

 

長宗我部氏と浦戸城

浦戸城

ときは戦国の世。長宗我部氏が台頭してくる時代。

長宗我部氏は代々土佐国・岡豊城を拠点とした豪族です。祖先は秦氏と呼ばれる渡来系氏族だとされています。

岡豊城

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長宗我部氏vs本山氏の【長浜の戦い】で浦戸城を巡る争いが行われています。

漸々として式部少輔は、海際を東へ、浦戸の城にぞ籠られける。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第四 長濱合戰の事

本山式部少輔茂辰が次第に追い詰められ浦戸城に籠城したという内容です。

そして、

斯る所に覺世、いかなる所存にやありけん、攻口を開きて、種崎へ引退き給ひければ、茂辰頓て浦戸を出で、朝倉の城にぞ籠られける。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第四 長濱合戰の事

このようなところに長宗我部国親、どのような考えがあったのだろうか?攻め口を開けて、種崎へ退却すれば、茂辰はまもなく浦戸を出て、朝倉城に退却し籠城した。

長宗我部国親はこの戦いの最中に病気に罹り、岡豊城にて養生するも帰らぬ人となります。

嫡男の元親が跡を継ぎ、本山氏などの国衆を屈服させ、土佐国を統一、そして四国の殆どを平定するという覇業を成し遂げました。

しかし、豊臣秀吉による四国征伐で敗北したため、土佐国以外の領地は没収されてしまいます。その翌年、秀吉から出陣の命を下された九州征伐で、嫡男の信親を失うという不幸にあっています。

戸次川古戦場

豊薩合戦・戸次川の戦いについて!長宗我部信親の墓にお参りしてきた【大分の旅】

2018-01-01

 

浦戸城

宮内少輔元親、如何なる思惟にかありけん、數代住馴れし岡豐の城を改めて、大高坂へ移さるべしとて、天正十二年の頃より、其催ありしかども、世の急激に押移りて、暫は沙汰もなかりしが、同十五年には事極りて、大高坂山に城を築き、國澤に町家を立て、翌十六年の冬、城移りありければ、士はいふに及ばず、商家民屋を毀ち、資財雑具を持運べば、岡豊は忽に、冬野が原と寂び返り、國澤は暫時に花の都をなせり。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第十五 城替の事

【訳】長宗我部元親、どのような思いがあったのだろうか、数代に亘って住み慣れた岡豊城を改めて、大高坂へ移すべきと、天正12年の頃から、その動きがあったけども、世が急激に流れ移ったため、しばらくは何もなかったが、同15年になって、大高坂山に城を築き、国沢に民家を建て、翌16年の冬、城替えがあり、武士はもちろん、商人や住民の家を壊し、引っ越しすれば、岡豊はたちまちに、冬の野原のように静まり返り、国沢はしばらくの間、花の都となった。

にっぽん旅行記 岡豊城について

岡豊城を離れ大高坂城(高知城)に移り住みますが、水害に悩まされ2年程して浦戸城に移り住んでいます。

翌十七年より城普請あり、同十九年に、浦戸の城へぞ移られける。年月住みし岡豐より國澤へ移り、二年のたつやたたずして、又浦戸へ移り給へば、こはそも何事ぞやと、上下驚く計なりしが、月を重ね日を積みて、住めば都になりにけり。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第十五 城替の事

天正17年より城の工事があり、同19年に、浦戸城に移られた。長く住んだ岡豊から国澤に移り、二年経つか経たないかで、また浦戸に移れば、これは一体何事か?と、みんな驚いたが、月を重ねて日を積めば、住めば都になるものだ。

長宗我部元親は浦戸移城のおよそ8年後の1599年に亡くなります。1600年に行われた関ヶ原の戦いで長宗我部氏は西軍の味方をしたため徳川家康に土佐国を没収され、改易処分となりました。

その後、山内一豊が土佐国に入封するのですが、その際に徳川方が浦戸城を接収しようとしたところ、長宗我部氏の家臣の一部が猛反発する事件が発生しました。これを浦戸一揆といいます。

 

山内氏の入封と浦戸一揆について

浦戸城

浦戸一揆は一領具足と呼ばれる半農半兵の組織が主体となって起こした反乱です。

一領具足と申すは、僅の田地を領して、常に守護へ勤仕もなく役もなく、唯己が領地に引籠り、自ら耕し耘り、諸士の交わりもせざれば、禮儀もなく作法もなく、明暮武勇のみ事として、田に出づるにも、鎗の柄に草鞋兵糧を括り付け、田の畔に立ち置き、すはといへば鎌鍬を投捨て走り行き、鎧一領にて差替の領もなく、馬一疋にて乗換もなく、自身走り廻りければ、一領具足と名付けたり。弓鐵炮太刀打に調練して、死生知らずの野武士なり。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第十九 山内一豊土佐國拜領幷浦戸一揆の事

一領具足と申すのは、僅かな田んぼを領して、守護への勤務も役もなく、ただ自分の領地に引きこもり、自ら農作業をし、諸士との交わりもしなければ、礼儀もなく作法もなく、日々武勇のみが仕事とし、田んぼに出るときも、鎗の柄にわらじや飯を括り付け、田んぼの畔に置いておき、それというときは鎌や鍬を投げ捨て走り行き、鎧を一領にて替えもなく、馬は一匹にて乗り換えもなく、自身が走り回れば、一領具足と名付けられた。弓、鉄砲、太刀の調練をして、死生知らずの野武士なり
長宗我部国親や元親は一領具足を巧みに利用して領土を拡大していったと云われています。

一揆に対して徳川家康は、藤堂高虎、加藤嘉明らの四国勢に討伐命令を下しています。

しかし、一揆は身内の対立によって殆ど解決します。

一領具足は身分の剥奪を恐れ徳川政権に反抗しますが、家老格は冷静でした。徳川の指示に従うことが主君である盛親に対する忠義だとし、一揆勢の不意を突き鎮圧することに成功。

一揆の人數、都合一萬七千とぞ聞えし。討取る所の首二百七十三、大將八人の首も此内なり。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第十九 山内一豊土佐國拜領幷浦戸一揆の事

こうして浦戸城は山内一豊のものになります。

 

終わりに

浦戸城

1601年、山内一豊は浦戸城に入るも、すぐに大高坂山築城計画を立てています。

長宗我部元親が水害に悩まされ築城を断念した場所ですが、中央と繋がりのある一豊は城造りのプロを招き普請を開始しました。

1603年に本丸、二の丸が完成。これが後の高知城です。

高知城

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居城が高知城に移されたため、浦戸城はそのまま廃城となりました。

おしまい!



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