秋山兄弟生誕地へ!日露戦争で大活躍した好古&真之の人生について【愛媛の旅】

秋山兄弟誕生地

愛媛県松山市の秋山兄弟誕生地に訪問しました。秋山兄弟は好古(兄)真之(弟)のことで共に日露戦争を戦い抜き日本の勝利に貢献した軍人です。

司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』は秋山兄弟と真之の友人である正岡子規の人生を主軸に、近代日本の時勢を書いた作品です。

また司馬遼太郎の死後、テレビドラマ化され2009年11月から2011年12月までの3年間NHKで放映されました。賛否両論ある作品ですが、明治期の時流と秋山兄弟の人生がわかりやすく描かれていますので、入門編にはもってこいだと思います。

それでは秋山兄弟について紹介します。

 

秋山兄弟生誕地へのアクセス

秋山兄弟誕生地

秋山兄弟生誕地に駐車場はありません。

すぐ近くに松山城がありますので、松山城駐車場に停めて徒歩で向かうとよいでしょう。

道後温泉方面から向かうなら路面電車が便利です。大街道駅が最寄り駅。

 

秋山兄弟の両親と生まれ故郷

秋山兄弟誕生地

秋山兄弟は江戸時代末期に松山城下の中歩行町で生を受けました。

父は秋山平五郎久敬という松山藩の下級武士で、先祖は伊予の豪族・河野氏だと云われています。久敬は若い頃から優秀で徒目付に抜擢される程でした。勉強熱心で教養豊かだったため、廃藩後は県の教師などを務めたそうです。

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母は貞といい、久敬との間に一女五男を儲けました。

三男が信三郎好古、五男が淳五郎真之です。

真之の誕生に兄弟愛を思わせる逸話が残っています。

4人の男子に恵まれた秋山家はそれ程裕福な家庭ではなかったため『これ以上男が生まれると家計が厳しくなる。せめてお腹の子が女だったら…。』と夫婦は冗談交じりで話していました。

しかし男の子が誕生します。

子は淳五郎(真之)と名付けられましたが、夫婦は『寺にでも出すべきかな?』と悩んだそうです。

そこで当時10歳くらいだった信三郎(好古)がこれを聞いて言います。

『お父さん、赤ん坊をお寺へやつちや厭ぞな。追つ付けうちが勉强してな、お豆腐ほどお金を拵へてあげるがな』と言つて、兩親をしんみりさせたといふことである。

秋山好古大將傳記刊行會 秋山好古 第一章 鄕を出る迄より

『お豆腐ほどお金』の意味は同書によると松山の豆腐が恰も紙幣を積み重ねたような形をしていたため、地元の人が『豆腐程のお金を積んでみたい。』などと言ったのを好古が聞き覚えていたためだろうとしています。または単純に豆腐程の厚さの札束という意味だとする書籍もあります。

言葉通り大人になった好古は真之を世話し学費の工面をしたと云います。

 

秋山好古について

秋山兄弟誕生地

秋山好古は1859年(安政6年)に誕生し、1930年(昭和5年)でこの世を去りました。享年71。

まずは軍人としての彼を見てみましょう。

將軍は陸軍大學初期の卒業生であるが、早く松山舊藩主久松伯のお守役でフランスに留學し、歸つてから士官學校の少佐敎官になつた。それが日清戰爭の前のことだ。次で騎兵第一大隊長に榮進し、日清戰爭には山地獨眼龍將軍の麾下に旅順攻略に從軍した。

その後騎兵學校長、騎兵旅團長、騎兵監、師團長、軍司令官、敎育總監等の要職に累進し、國際會議にも出て重要の任務に服したが、特にその功績上見逃すことの出來ないのは、我騎兵の發達に重要なる役割を務めたことだ。卽ち將軍は、丁度日清戰爭直前に於ける我國騎兵の創設時代から、日露戰爭直後に於ける充實期に掛けての、全く中堅人物であつたのである。

秋山好古大將傳記刊行會 秋山好古 第一章 鄕を出る迄より

秋山好古は陸軍大学の初めの頃の卒業生であるが、早くに旧松山藩主の久松定謨の守り役でフランスに留学し、帰ってから士官学校の少佐教官になった。

それが日清戦争の前のことだ。次いで騎兵大隊長に出世し、日清戦争では山地元治の下で旅順攻略に従軍した。

その後、騎兵学校長、騎兵旅団長、騎兵監、師団長、軍司令官、教育総監などの要職に進み、国際会議にも出て重要な任務に携わったが、特にその功績上見逃すことが出来ないのは、我が騎兵の発達に重要なる役割を務めたことだ。

すなわち秋山好古は、日清戦争直前における騎兵の創設時代から、日露戦争における充実期にかけての、中心となる人物であったのである。

秋山好古は騎兵の研究に尽力した軍人でした。

ただ騎兵を研究するだけではなく、実際の戦争で自ら騎兵隊を率い、日本軍の勝利に結びつけた実績が評価されました。

日本騎兵の黎明期から育て、充実期に至るまでを支えた人物ですので『日本騎兵の父』や『日本騎兵の建設者』などと称されることがあります。

その後、騎兵は武器の進化により縮小の一途を辿ります。

 

秋山兄弟誕生地

陸軍大将まで上り詰めた好古は64歳で予備役に編入され、軍人としての生活を終えます。

そして地元の松山へ戻り学校教育の道に進みます。(いや、進むというより戻ってきたといったほうがよいかもしれません。)

軍人になる前は教師を生業にしていました。17歳で大阪の小学校に勤務し、翌年には愛知県の小学校教師に。そして、19歳で陸軍士官学校に入校。そこから軍人の道を志すようになったのです。

『秋山好古大將傳記刊行會 秋山好古』の秋山好古年譜によると、

明治八年 十七歳 

一月 文學修業ノ爲メ大阪ニ出ヅ

同月 五等助敎堺縣河州四拾五番小學校在勤、五月辭職、大阪小學師範入校

明治九年 十八歳

七月 右卒業、愛知縣三等訓導(月給卅圓)

明治一〇年 一九歳

二月 依願免職

三月 東京府豫備敎員

(五月四日 陸軍士官學校入校)

秋山好古大將傳記刊行會 秋山好古 秋山好古年譜より

1924年(大正13年)に北予中学校の校長に就任。66歳のときです。

とても強面な校長でしたが、怒った顔は見せずにニコニコしながら学校内を歩き、1日も休まず、1分の遅刻もせず6年間務めたと云います。教員たちは好古の威厳に触れ皆勉強家になり、欠勤する者が減ったそうです。生徒も同様でした。

不良生徒数人が警察沙汰になったときに、北海道にいた好古はすぐ駆けつけ問題の解決に奔走しました。

事が収まった後、責任感の強い彼は『全ては校長である自分の責任だ。』と辞表を提出しましたが、周囲の人々が辞表を撤回するように懇願したことから、その情意に触れ留任を承諾したという話が残っています。

 

秋山兄弟誕生地

最後に好古校長が始業式や終業式、また記念式などのスピーチで残した教育訓話を紹介して、弟の秋山真之の話に移ります。

『諸子の修養に關しては時機を得るに絶えず訓示する所なれども、重複を厭はず、更に諸子に訓諭する所あらんとす。

一、本校生徒は正義を愛し、仁愛を重んじ、獨立自治、自勞自活の精神を絶えず發揮すべし。

二、質實剛健にして勤儉力行の美風を常に涵養すべし。

三、秩序を尊び、節制を重んじ、困難の極所に立ちて益々勇往邁進すべし。

四、自學自習を尊重し、實學に志し、實行を重んじ、實力を養成し、邦家社會の爲實益を擧ぐるに勉むべし。

五、世界の競爭裡に立つて國運の振興を計らんには、國家の中堅たるべき中學生の力に持つもの多し。諸子は協同の精神を充實し、鋭意學術の研究に從事し、世界の模範國民たるを期すべし』

秋山好古大將傳記刊行會 秋山好古 第七章 殘生奉仕より

 

秋山真之について

秋山兄弟誕生地

秋山真之は1868年(慶応4年)に誕生し、1918年(大正7年)でこの世を去りました。享年49。

其の兄とはまるで反對に、弟の眞之は、やんちやな、いたづらツ子であつた。遊ぶ時でも餓鬼大将だつた。

秋山眞之會 編輯 提督秋山眞之 泣き蟲と餓鬼大將より

好古は威厳に満ちた晩年を過ごしましたが、幼い頃は虚弱で大泣き虫だったそうです。

弟の真之は『やんちゃな、いたずらっ子でガキ大将』だったと記されています。

秋山兄弟が誕生した中歩行町は士族の町で隣接する東雲町は町人が住む町でした。

子供ながらに階級意識があり、幼い頃の真之は士族の頭領として子供たちを率い町人グループとチャンバラを繰り広げ、相手を泣かせたり怪我を負わせたりしたため、相手の親たちから抗議を受け、そのため母の貞は御詫びに回ったと云います。

 

さうした切り詰めた生活ではあつたが、『田舎に置いてゐたのでは立派な男にならない。矢張り東京へ呼んで、自分が監督し、みつちりと勉强させねばならない』といふので、眞之を自分の許に呼び寄せた。

秋山眞之會 編輯 提督秋山眞之 嚴しかつた好古將軍より

真之は15歳のとき上京し、下級将校となっていた好古の元に居候しています。

この時の好古は鬼そのものでした。好古の厳しさを伝えるエピソードを幾つか紹介します。

母の貞が東京は寒いだろうからと真之に綿の入った足袋をプレゼントした。しかし好古は『贅澤だ!』といって足袋を履くことを禁じた。

また真之と兄である(好古の弟でもある)善四郎が、余りにみすぼらしい恰好をしていた真之に当時流行していた兵兒帶を渡した。結んで家に帰ると『誰に貰ったんだ?』と叱られ『そんな贅沢品を装うな!』と言われる。

雪の降る日、真之が玄関でまごついていると『何をしているのか?』と好古が尋ねる。

『下駄の鼻緒が切れて結んでいるのです。』と伝えると『裸足で行け!』と怒鳴られた。

真之が新聞を読んでいると、いきなり好古が怒りだして『頭が固まっていないうちに新聞なぞ読んでいかん!』と没収。

かなり理不尽ですが、真之は後に『自分がこれまでになつたのは、陸軍の兄のおかげだ』と回想しています。

 

秋山兄弟誕生地

その後、好古の家を出た真之は友人の正岡子規と下宿し大学予備門に通いました。

寄席に興味を抱いたらしく友人たちと見に行き、浄瑠璃本を読み耽ったと云います。

しかしある日突然…。

『秋山は方針を變へた。年々學生がどんどん殖えてゆくのを見て――きつと將來は大學生があふれるだらう。さうなると我々も悲觀せざるを得ん――といつて、海軍兵學校に行つた』と子規が言つた。

秋山眞之會 編輯 提督秋山眞之 正岡子規と提督

こうして真之は軍人の道へ進み行くのです。

海軍兵学校では最初こそ生徒55名の内で15位程の成績でしたが、第一学年を終えるころには首席となり卒業まで通しました。あまり勉強している様子がないのに首席を通し続けられるのか疑問に思われていたようです。

後に海軍中将となった竹内重利は真之から勉強のコツを教授されています。

眞之は兵學校を出る時、大小試驗問題綴りを全部竹内氏に吳れてしまつた。そしていつた。

『試驗問題などは、過去五年間の試驗問題を通覧すれば、出さうな問題は大體見當がつくもんだ。必要な問題は、どの敎官でも大抵繰り返して出すもんだ。それと、平素から敎官の説明振りや、講義中の顔付に氣をつけてゐると、その敎官の特性がわかるから、出しさうな試驗問題は略ぼ推定だ出來るよ』

秋山眞之會 編輯 提督秋山眞之 提督の勉强より

だそうです。

『過去の傾向を見極め、相手を鋭く観察すれば解決法が見えてくる。』

いちち
理屈はわかりますが、これが出来るから天才なんですよね…。

この他に『パンをこねてビスマルクの顔を作った話』や『海軍兵学校で初めて野球をした話』などの逸話が【提督秋山眞之】に書かれていました。

 

秋山兄弟誕生地

1890年(明治23年)、海軍兵学校を卒業した真之は少尉候補生に命ぜられ軍艦の比叡に搭乗。

その後まもなく少尉に任じられ、龍驤の分隊士、松島、次いで吉野の航海士なりました。日清戦争時は筑紫の航海士として参戦するも後方支援だったため前線に出ることはありませんでした。

【提督秋山眞之】には威海衛の戦いで日島の砲台を落とすための決死隊に志願するも、強風と高波に阻まれて突撃が中止になり残念がったという話が書かれています。

日清戦争後は水雷(魚雷、機雷)の研究に励み、1896年(明治29年)に大尉に昇進、そして海軍軍令部諜報課員として活動しました。この頃には既に日露戦争が予期されていたので、ロシア研究と対露作戦の準備にかかっていたとあります。

翌年、アメリカに留学。留学時に米西戦争が発生し米艦ニューヨークに乗り組み戦況の視察を行いました。この経験が後の対露海戦に活用されたと云います。

1899年(明治32年)にイギリス駐在を命じられ半年後に帰国後に海軍省軍務局員や常備艦隊参謀を務め少佐に昇任、1902年(明治35年)には海軍大学校の教官になっています。

『其の頃の海軍大學の學生はなかなか鼻息が荒かつた。不審な點があると、敎官に對してどしどし議論を吹つかけた。質問ではなくして詰問であるとまでいはれたものだ。ある敎官とは一時間半も議論を續けたりした事もあつたが、秋山敎官の講義と應答に對しては、常に突き込む餘地がなく全く心服してゐた』

秋山眞之會 編輯 提督秋山眞之 大學校敎官時代より

生徒として優秀だった真之は教師としても抜群の適正を見せました。自身の知識及び経験と生徒が求める答えを照らし合わせ最適解を提示するような教え方だったのでしょうか。

 

秋山兄弟誕生地

日露戦争では東郷平八郎中将を司令官とする連合艦隊司令部の参謀として旗艦・三笠に配属。これまでの研究を駆使して日夜作戦を練り続けました。

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日露戦争の各海戦の戦況は多くの書籍やサイトで詳らかにされているので割愛して、代わりに真之出征時の秋山家の絆を表した文章を少々長いですが引用します。

いよいよ眞之が、聯合艦隊參謀として出征する事となつた時、眞之の母堂貞子自は、彼の出征を祝し、且つ訣別を兼ねた激勵の手紙を寄せた。

それには、『若し後顧の憂ひがあり、手足纏ひの家族の爲に、出征軍人としての覺悟が鈍るやうな虞れがあるならば、私にも充分の覺悟があります』といふやうな意味の事が記されてあつた。

母堂の手紙を手にし、其の一字一句を感激の心で讀んでゐた眞之の眼からは、熱い淚が、はらはらと雙頬に流れた。

『おつ母さん、きつと今度の戰には勝つて入れます。ありがたう〱』眞之は手紙を持つたまゝ、ブル〱と武者震ひした。

嚴肅な、崇高な母の愛情、それに酬いるためにだつて、きつと勝たねばならない。

眞之はハンカチで眼を拭ひながら、きつと誓つた。母堂の書狀は封筒ぐるみ別の封筒に收められた。それから母堂の寫眞も。そして其の表に、自ら筆をとつて『大慈大悲』と達筆で記した。

今一つ、眞之は新たに一葉の名刺を入れて封じた。それは、兄好古將軍の名刺であつた。

『這囘の役一家全滅すとも怨なし』といふ意味の事が記されてあつた。好古將軍の『盡忠報國』の宣誓である。

眞之は、此の三つのものを入れた封筒を更にハンカチで包み、軍服のポケットにをさめ、戰爭中、守護神の如くに、肌身離さず持つてゐた。

此の母、此の兄にして眞之提督の如き偉人が出現したわけである。

秋山眞之會 編輯 提督秋山眞之 母堂の激勵より

 

秋山兄弟誕生地

戦後は海軍大學校の教官を2年勤めた後、三笠の副長、秋津洲音羽橋立伊吹などの艦長に就任し第一艦隊の参謀長に任じられます。

1914年(大正3年)には大隈内閣の八代海相の下で軍務局長を務めました。

その後、対中政策や第一次世界大戦の視察のため各国に渡り視察。帰国後、第二艦隊水雷司令官に配されましたが、病気がちになり海上勤務を離れ海軍将官会議議員に就きました。

提督は、大正六年の十二月一日、中將に昇進したが、病氣はなか〱よくならないので遂に待命を仰付けられた。それ以來提督は專ら靜養に努めたが、大正七年一月下旬、相州小田原の山下龜三郎氏の別邸で病氣が再發した。

秋山眞之會 編輯 提督秋山眞之 提督の大往生

真之は虫垂炎(盲腸)を患い、それが悪化し亡くなってしまいます。49歳という若さでした。

晩年の真之は宗教研究にのめり込んで行ったと云います。しかし理論的で合理主義だった彼は宗教の神秘さに魅かれながらも盲信することは叶わなかったようです。

真之と宗教の関係は様々な考察が為されています。それについて適当な言葉で表すことは出来そうもありませんので、興味のある方は御自身で調べて下さい。

 

終わりに

秋山兄弟誕生地

以上が秋山兄弟についてでした。

いちち
今回引用しまくった【秋山好古大將傳記刊行會 秋山好古】や【提督秋山眞之】は国立国際図書館デジタルコレクションで閲読可能です。(ネットで見れる)

読みやすいので興味のある方は是非読んでみて下さい!

おしまい!



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