徳川家康の生まれ城である岡崎城としかみ像の伝説について【愛知の旅】

岡崎城 外観岡崎城は室町時代(15世紀後半)に三河国仁木氏の守護代・西郷稠頼と息子の頼嗣によって築城された龍燈山城が前身です。 

守護代・・・守護は幕府が各地統治のために置いた地方官。守護代はそれを補佐する役割。

頼嗣の息子、西郷信貞の代に松平清康がここを奪い取りました。清康は徳川家康の祖父です。

 

家康の祖父「松平清康」

大手門松平清康は三河松平氏の第七当主。別名「世良田次郎三郎」。清康が世良田次郎三郎、また家康が徳川(得川)を名乗ったことは清和源氏のひとつ「新田氏」と関係があるので群馬出身の私としましては大変興味深いことなのですが、マニアックな内容であることと岡崎城の話からかなりそれてしまうので割愛。

松平清康はかなりの名将だったようでどんどんと勢力を広げ、若くして三河を統一しました。三河統一後さらに勢力を広げんとし尾張国の織田家に攻めこみます。織田信秀(信長の父)の弟が守る守山城を攻略している際、家臣によって殺害されてしまいます。

これを「森山(守山)崩れ」といいます。松平一族絡みの謀殺といわれています。この事件により松平家が一時衰退。統一した三河国もバラバラになってしまいました。

いちち
家康の祖父というところから「じいさん」のイメージが湧きますが、清康は25歳で亡くなっています。

 

幼少期の徳川家康

徳川家康像徳川家康の父、松平広忠も清康と同じく短命で20歳半ばで命を落としています。死因は定まっておらず病死、謀殺、一揆に巻き込まれ死亡といろいろな説があります。

森山崩れで祖父が亡くなり広忠の代になると家康は従属していた今川家に人質として出されます。ところがここで大事件がおきます。 今川家に向かっている途中に攫われ織田家に売られ、そのまま人質に取られてしまいます。 

まぁ、そこで織田信長に出会えて天下泰平に繋げることができたので結果オーライですが、当時の家康は生きた心地がしなかったでしょう。その後の家康は・・・。長くなるので「戦国の世に終止符を打った」とだけいっておきます。

ここからは岡崎城内の紹介!

 

産湯の井戸産湯の井戸。

家康が生まれた時、この井戸の水を汲み産湯に使用したといわれています。

 

えな塚えな塚。

家康の胞衣(えな)を埋めた塚。以前は本丸南にあったそう。胞衣とは胎児を包んでいた膜や胎盤のこと。

 

能楽堂能楽堂。

もと二の丸があった場所。家康はこのあたりで生まれたといわれています。※城内の看板より。

 

二の丸井戸二の丸御殿の井戸。

平成19年の発掘で発見されたものです。

 

からくり時計岡崎公園時計塔。 

定刻になると家康が踊るそうです!もちろん定刻まで待つ時間はなく華麗にスルー。

 

本多忠勝の像蜻蛉切で有名な本多忠勝。

生涯57回もの戦に臨んだが一度も傷を負わなかったといわれています。2016年の大河ドラマ「真田丸」では「藤岡弘、」さんが本多忠勝役で出演されるそうです。

 

龍城神社龍城神社(たつきじんじゃ)。御祭神は徳川家康、本多忠勝、天神地祇、護国英霊です。

岡崎公園内にあります。正月三が日だけあって人が多く、遠くから撮影のみ。

 

家康との年の差家康との歳の差。

武田信玄は21歳

上杉謙信は12歳

織田信長は8歳

豊臣秀吉は6歳

うむ。これは勉強になり申した。

信長と秀吉の年の差が2歳しかないことに驚きました。もう少し年が離れているのかと思っていました。

 

徳川家康 しかみ像徳川家康しかみ像。「徳川家康三方ヶ原戦役画像」 

浜松の三方ヶ原の合戦で武田信玄に完膚なきまでに負けた家康の苦渋の顔。無謀な戦いを挑み、多くの家臣を失ってしまった家康が自戒の念を忘れぬように描かせた絵画をもとにした像です。三方ヶ原の戦いで有名な逸話があります。

武田軍の猛将「山県昌景」に本陣にまで攻め込まれ敗走したのですが、この時に恐れおののいた家康が「脱糞」してしまったそうです。浜松城に着いたとき家臣の大久保忠世に脱糞がバレて笑われました。その時家康は「これは焼き味噌だ!」と言い放ったというお話。

 

終わりに

この話が本当かどうかはわかりません。

見つけて揶揄ってしまう大久保忠世の凄さ(空気の読めなさ)と家康の言い訳のセンス。面白過ぎです。忠世は後々「是等皆妄説なる故に削り去りぬ。(これは全部でたらめだから削ります)」と言ったとか!

こんな感じで終わりです。

おしまい!



岡崎城 外観

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