決戦、桶狭間の戦い!織田信長が活路を開いた場所【愛知の旅】

岡崎城を去り名古屋方面へ。意識はしっかりしているが「ほわほわ」した感じで原付を走らせる。なんせこの時点で12時間運転しているのだ。勿論休憩を取りつつではあるが。 

ふと見上げると、「桶狭間古戦場跡⇒」の看板。もちろん躊躇することなく左折。我ながら素晴らしい反射神経と判断力だったと思う。目的地ではないが行かないという選択肢はない。 

このような突然の発見が、ひと味もふた味も違う旅を演出してくれる。

というわけで桶狭間です!

 

史蹟 桶狭間古戦場

2016-01-02 11.23.32おそらく桶狭間の戦いは関ヶ原の戦いと同じぐらい有名でしょう。歴史に全く興味ない人でも聞いたことあると思います。 織田信長vs今川義元の戦いです。

結果はご存じの通り織田信長の大勝利です。これがきっかけで信長は飛躍していきます。というかこれで負けていたら織田家滅亡していたかもしれません。それぐらい重要な戦だったわけです。

 

今川義元の墓

今川義元の墓この辺りで今川義元は討ち死にしたと伝わっています。今川義元は「おじゃる(麻呂)」であまり能力のない武将だったという印象を受ける方もいらっしゃると思いますが、それは間違いである可能性が高いです。

幼い義元は今川家には後継ぎがいるということで仏門に出されます。ところが後継ぎ候補が次々亡くなっていき、その流れで起きた後継者争いに勝利。これを以て今川家11代当主となりました。

 

駒つなぎのねず

駒つなぎのねず今川義元はこのねずの樹に駒(馬)を繋いでいたといわれています。 
結果的には駿河、遠江、三河、尾張の一部を支配する大名にまで成長しました。軍事面でも結果を残しています。無能な人間が3国+αを治められましょうか? 寄親寄子を導入し家臣団を統制。自国の検地もしっかりと行う。内政面でも手腕を発揮しています。

それまで足利幕府の守護大名でしたが義元はこれを切り離し戦国大名として独立。この大胆な判断力。凡人にはこんなリスキーなことできません。 甲相駿三国同盟(今川、武田、後北条)を結び後は西に進むだけ。かつては敵だった後北条家と同盟を組むなど外交面もしっかり。

織田家を倒し、現在の滋賀(六角家)を抜ければそこは京都。十分、天下を狙える位置にいたわけです。

 

お化け地蔵

お化け地蔵 お化けが出るということで1853年に尾張藩士が建立したお地蔵さん。 
そして1551年に信長の父、織田信秀が病没。ぼちぼち織田家を滅ぼすかなということで1560年に進軍。今川軍総勢2万。今川義元の周りは5~6000人位いたといわれています。ちなみに松平元康(後の徳川家康)は今川軍として織田方を攻めています。

大軍が迫った織田家は「籠城or出撃?」で軍議が開きます。信長はひたすら黙る。その様子を見て家臣たちは不安に満ち満ちる。

とある報告が入り突然飛び起き、熱田神宮へ。 そして戦勝祈願。こんな切羽詰まった状況で突然出ていく信長に家臣一同唖然とします。そして突然、信長は2~3000の兵を集める。桶狭間に敵の気配を察知す。とある家臣「え!?玉砕?」

信長「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」と言ったとか言わなかったとか。

突撃ぃぃぃぃぃぃぃッッ!!

前方が見えない程の豪雨に信長はこのタイミングしかないと今川義元本隊に奇襲かけます。恐らく信長も義元の首を取れると思っていなかったでしょう。乱戦状態になり義元は逃亡を試みます。ところが信長の家来である毛利新介良勝に絡まれ抵抗するも敗北。そして討ち死に。首級を取られてしまいます。

 

徳本の名号

徳本の名号江戸時代に活躍した浄土宗の徳本上人が戦死者を弔うために建てた名号塔。桶狭間の戦いにより今川家は一気に衰退。どうやら今川家はほぼ義元の人望と力だけで保っていたようです。この時、今川家人質の平元康(徳川家康)が独立して勢力を持ちます。

これを境に戦国の世は徐々に織田信長の色に染まっていくのです。

おしまい!



今川義元の墓

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いちちと申します。
休日の殆どを一人旅に費やしています。いつか流浪の民になって日本中を周って過ごしたい。歴史、B級スポット、心霊スポットのネタが多めな旅行記ブログです。

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