繁華街の片隅に静かにたたずむ府内城跡に行く!【大分の旅】

私はずっと府内城は豊後国の大名・大友氏が築城して、戦国時代には大友義鎮(宗麟)ことドン・フランシスコが居城にしていたのだと勘違いしていました。大友氏が鎌倉時代から地域一帯を治めていたことに間違いはないのですが、どうやらここではなく大分駅の東側に大友氏館を構え政治を行っていたそうです。

府内城跡に訪問したときは『大友宗麟のブログネタを手に入れた!』とやる気満々だったのですが、なんか残念です。では、誰が築城して居城にしたのか。その辺りを府内城跡の様子と一緒に見てみましょう。

 

府内城跡へのアクセス

国道10号線を中春日で曲がり、少し進むと左手に見えてきます。私は近くの有料駐車場に停めましたが、他にも停めれる場所があるかもしれません。電車なら大分駅の府内中央口から出て中央通りを進みます。昭和通りの交差点を右折したら間もなく到着です。

 

府内城跡について

府内城 大手門府内城跡の入口、大手門です。

築城年は1597年。こんな遅くに築城されたことにビックリです!『以後苦難(1597年)続く慶長の役』の語呂で有名な年です。翌年の1598年には豊臣秀吉が死没しています。初めは府内城ではなくここの地名をとって荷揚城と呼ばれていました。

 

府内城跡築城者は豊臣秀吉家臣の福原直高(長堯)。福原直高は播磨赤松氏の一族、妻は石田三成の妹。慶長の役では軍監として渡航します。このとき石田三成らと『武闘派(加藤清正とか)の武将が軍令違反した!』と秀吉にチクったため武闘派と不仲になってしまいます。

秀吉が亡くなり武闘派が徳川家康とタッグを組み石田三成を失脚させると福原直高も荷揚城築城に人と金を使いすぎと咎められ府内領を没収されてしまいます。

 

府内城跡福原直高が追い出された後に入城したのは早川長政(長敏)です。しかし彼も関ヶ原の戦いで西軍(石田三成側)に味方したので、すぐに改易となってしまいます。早川長政の次は竹中重利。竹中重利は秀吉の参謀として活躍した才子短命な竹中半兵衛の従兄弟、または甥にあたる人物です。

 

府内城跡

 

府内城跡山里丸という曲輪と西の丸を繋いでいた廊下橋。

竹中重利の子、重義が長崎奉行を兼務していた際に不正を咎められ切腹させられてしまいます。これには徳川2代将軍・秀忠に寵愛されていた重義が秀忠の死後、3代目家光に邪魔だと思われて粛清されたという説もあります。重義はキリシタンを苛烈に弾圧したことでも有名です。

雲仙地獄で源泉熱湯ぶっかけを採用したのも彼だそうです。

 

府内城跡慶長の石垣。築城当時に積まれた石垣です。

竹中重義が切腹したあとに府内にやってきたのが日根野吉明。ところが日根野吉明は跡取りがいなく断絶。1658年に松平忠昭が入城し明治維新まで大給松平氏が府内を居城とします。大給松平氏は松平宗家(徳川氏)の遠い親戚でずっと仕えていたので譜代大名ですね。

 

府内城多分天守があった場所。見事に何もないですね!

その後の府内城は大火で燃えたり、戦争で爆破されたり何も残りませんでした。現在、城跡の一部に大分県庁、大分市役所が建っています。

 

人柱お宮伝説とは?

府内城跡築城の際に度重なる水害が起きたため普請がなかなか進みませんでした。そこで霊的な何かに縋って人柱を立てることにします。

 

『人柱になってくれる人がいたら、あなたの家族一生面倒見ます!』

的なお触れを出したそうです。

すると『お宮』という娘が困窮する家族を思って人柱になることを志願し、弁財天の木像を抱いたままこの世を去っていきました。その後、築城は難なく進み『お宮』は弁財天と共にここへ祀られました。説明板には美談っぽく書いてありましたけど普通に恐ろしい話ですね…。

おしまい!



府内城跡

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA