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日本三大大仏に数えられる高岡大仏について【富山】

高岡大仏

日本三大大仏という言葉があるようです。内二つは奈良と鎌倉の大仏で、これはあまりに有名ですし、歴史的な価値が高い大仏ですので異論はありません。

では、あと一つは?

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どうやらこれには諸説あるみたい。

東京大仏、岐阜大仏、兵庫大仏などなど。

(奈良と鎌倉の二大大仏じゃだめなのかしら?)

さて本題。

富山旅行で訪問した高岡城散策の際に偶然見つけた高岡大仏。

上の写真をご覧いただくとわかりますが、寺院自らが日本三大大仏を謳っています。強豪犇ひしめくなか、残りの一座を他を差しおいて堂々名乗る覚悟は見事としか言いようがありません。

さて、高岡大仏にはどのような歴史があるのでしょうか?

 

高岡大仏の場所

高岡大仏

高速道路を利用するなら高岡ICが最寄り。大仏に近づくと市街地の狭い道に入っていくので運転注意です。高岡大仏観光駐車場に停めて向かいましょう。

高岡駅から徒歩10分くらいの距離なので、電車で行ける方は車よりもそちらをおすすめします。

 

高岡大仏の歴史

高岡大仏

高岡大佛(定塚町建築)。延享二年新築成。文政四年六月火災、天保十三年再建成就せり。佛躰金色舟御光背負、内に十三佛と千躰具備せらるゝ。いづれも金色塗。彫工佛師山本與三平氏なり。

註 明治三十三年の大火に再び焼失したが爾來再建に努め昭和八年五月三日開眼式を擧げて現在の銅佛が完成した。大佛の高さ地上より五丈四尺五寸内コンクリート臺高さ一丈これに要した青銅原料三千貫といふ。

高岡開闢由来記・高岡町由緒聞書 第二十 高岡大佛の事より

高岡大仏(定塚町に建築)
延享2年(1745)に新築する。文政4年6月(1821)に火災、天保13年(1842)に再建が叶う。大仏の身体は金色で舟形光背を背負い、胎内に十三仏と千体が備わっている。いずれも金色で塗られている。彫工仏師は山本与三平である。
註 明治33年(1900)の大火で再び焼失したが、それ以来再建に努め昭和8年(1933)5月3日の開眼式を挙げて現在の銅仏が完成した。大仏の高さ地上より5丈4尺5寸(約16m)、コンクリート台の高さは1丈(約3m)、これに要した青銅原料は3000貫(約11t)という。

現地案内板によると、高岡大仏の起源は承久の乱(1221年)を避けた源義勝が二上山の麓に造立した木造大仏だとしています。源義勝の詳細については不明です。調べても室町幕府7代目将軍の足利(源)義勝の情報しか見当たりませんでした。

もし承久の乱前後に造られた仏像が由来だとするなら、由緒ある大仏だと言っていいでしょう。当時の木造大仏は存在しませんが、歴史は繋がっているという意味で三大大仏に選ばれてもいいのかもしれません。

 

高岡大仏

鋳造から着色までの全工程を高岡の銅器職人が担い、1933年に完成した。日本3大仏の1つと称される。

銅像阿弥陀如来坐像 案内板より

断言こそしていませんが、やはり公式が日本三大大仏だと認めているように読み取れます。日本人は『三大〇〇』のブランドが大好きなので、知ってもらうという意味で非常に重要なことなのでしょう。

こうなると他の三大大仏の候補がどのように謳っているのか気になるところです。それらについては実際に訪問してから調べようと考えております。

 

終わりに

高岡大仏

ここに安置してあります木製の佛頭は明治三十三年(一九〇〇)高岡の大火災に合いそれまで総金箔船形光背に千体佛を配した大佛尊像でしたが、木造の哀しさで佛頭だけが焼け残ったのでございます。

御尊顔の由来と回廊内壁の佛画についてより

現在の高岡大仏よりもこの仏頭に歴史的、および宗教的な価値があるように思えてなりません。ただ、文化財指定を受けていないですし、公式HPでも『焼け残りとされるご尊顔』と曖昧な表現なので本物かどうかはわからないのかもしれません。

胎内には仏頭の他に仏画や音階を奏でる『おりん』などが展示されていました。

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