腹切地蔵尊の曰く。源頼朝と共に戦った安田義定を吾妻鏡からみる

腹切地蔵

腹切地蔵尊

小野田山の南麓にあり、大字西保中に通ずる県道西保線(旧秩父裏街道)にそって祀られている石仏である。土地のものは通称『腹切地蔵さん』と呼ぶ。
甲斐源氏の一族で鎌倉初期この地を領した安田義定の生害の地といわれる。大正十四年県の名勝旧跡に指定された史跡であり、腹切地蔵尊のほか、六地蔵が並び、安田義定一族を供養し祀られた。

平成十六年十二月 牧丘町教育委員会

現地案内板より

この地で自害したと伝わる安田義定とはどのような人物だろうか?

鎌倉時代に編纂された吾妻鏡に彼の名前が何度か登場しているようなので、ちょっと引いてみよう。

 

吾妻鏡と安田義定

廿五日 乙巳 大庭三郎景親爲防武衛前途分軍兵 關固方々之衢 俣野五郎景久相具駿河國目代橘遠茂軍勢 爲襲武田一條等源氏赴甲斐國 而昨日 及昏黒之間 宿冨士北麓之處 景久并郎從所帶百餘張弓弦 爲鼠被飡切畢 仍失思慮之刻 安田三郎義定 工藤庄司景光 同子息小次郎行光 市川別當行房 聞於石橋被遂合戰事 自甲州發向之間 於波志太山 相逢景久等各廻轡飛矢 攻責景久 挑戰刻 景久等依絶弓弦 雖取太刀 不能禦矢石 多以中之 安田已下之家人等 又不免劔刃 然而景久令雌伏 逐電云々

吾妻鏡 第1巻より

治承4年(1180)8月25日乙巳

大庭景親は源頼朝様の前を塞ぐため兵隊を分けて方々の道、関を固めた。

俣野景久は駿河国の目代である橘遠茂の軍勢と武田・一条ら源氏を攻撃するため甲斐国に赴いた。

昨日の日没に富士山の北麓に泊ったところ、景久と家来の100余の弓の弦がネズミに喰われてしまったため慌てふためいていた。

そのとき安田義定、工藤景光、その息子・行光、市川行房、石橋の合戦の事を聞き甲州から出発したところ波志田山で景久らに相対し馬を廻し矢を射て景久を攻め立てた。

景久らは弓を絶たれてしまったので、太刀を取って戦ったが矢や石は防げず多くが命中した。

安田義定の家臣らも敵の刃の被害を免れなかった。けれども景久は敵に屈して逃げだしたとい云う。

石橋山の戦いで源頼朝が平氏方の大庭景親に敗北した後、安田義定を含む甲斐源氏が富士山の北側で平氏の軍勢と争った波志田山合戦の描写である。この戦いでは甲斐源氏が俣野景久らを撃退することに成功した。

源頼朝は箱根の山奥に潜伏し隙を見て房総半島へ逃げ落ち再起を図る。

小廿三日 壬寅 著于相摸國府給 始被行勳功賞 北條殿及 信義 義定 常胤 義澄 廣常 義盛 實平 盛長 宗遠 義實 親光 定綱 經高 盛綱 髙綱 景光 遠景 景義 祐茂 行房 景員入道 實政 家秀 家義以下 或安堵本領 或令浴新恩

吾妻鏡 第1巻より

治承4年(1180)10月23日壬寅

(源頼朝が)相模国府に着いて、論功行賞を行った。北條殿及び、信義、(安田)義定、常胤、義澄、廣常、義盛、實平、盛長、宗遠、義實、親光、定綱、經高、盛綱、髙綱、景光、遠景、景義、祐茂、行房、景員入道、實政、家秀、家義以下は本領を安堵されたり、或いは新しい土地を恩賞としてあげたりした。

富士川の戦いで平氏の軍勢が撤退。初めての論功行賞が行われた。この頃は武田信義や安田義定らの甲斐源氏の力がかなり強かったらしい。武田信義の遠い子孫にかの有名な武田信玄がいる。安田義定と武田信義は親戚同士。

 

小十三日 己丑 安田三郎使者武藤五 自遠江國參著鎌倉 申云 爲御代官 令守護當國 相待平氏襲來 就中 請命 向橋本 欲搆要害之間 召人夫之處 淺羽庄司宗信 相良三郎等 於事成蔑如 不致合力 剩義定居地下之時 件兩人乍乘馬 打通其前訖 是已存野心者也 随而彼等一族 當時多属平家 速可被加刑罸歟云々

吾妻鏡 第2巻より

治承5年(1181)3月13日己丑

安田義定の使者・武藤五。遠江国から鎌倉に着いた。

云う所によると

『義定は代官として当国を守護する命令を受け平家の襲来を待ち構えている。

命令を受けて橋本に向かい要害を構えようと人夫を雇ったが、浅羽宗信と相良等は蔑ろにして事を為さない。

それだけではなく、義定が地に立っているのに両人は馬に乗ったままその前を通った。

これはもう野心がある者の行為だ。従って彼らの一族、当時多くが平家に属している。速やかに刑罰を加えて欲しい。』

云々。

この頃、安田義定は遠江国(静岡県の西部)の代官に就いていた。『ムカつく奴がいるから成敗していいか?』という内容。浅羽宗信は一旦処罰されたが、反省したのか翌月に赦されている。

 

腹切地蔵

(前略)

老翁云 是豐受太神宮祢宜爲保也 而遠江國鎌田御厨者 爲當宮領 自延長年中以降 爲保數代相傳之處 安田三郎義定押領之 雖通子細 不許容 枉欲蒙恩裁云々 以此次 神宮勝事 引古記所見述委曲 武衛御仰信餘不能被問安田 直賜御下文 則以新藤次俊長 御使可沙汰置爲保使於彼御厨之由 被仰付之云々

吾妻鏡 第2巻より

養和2年(1182)5月16日乙酉

老人曰く。

『これは豊受太神宮の禰宜の為保です。

遠江国鎌田御厨は当宮の自領として延長年間からこのかた為保が数代に亘って相伝の場所に安田義定がこれを奪いました。

これらの詳細を伝えたけれどいう事を聞いてくれません。無理にでも情けある処置をいただきたい。この次第をもって、神宮の異常な出来事は古記に見るところを引くとこうあるべきなのに複雑になっている。』

と述べた。

頼朝様は信心深い余り、安田に事情を聴か、命令文を渡し新藤次俊長を使者とした。為保の使いに鎌田御厨を処置するようにと指示を下した。

安田義定の権力を削ぐ方向にもっていこうとする源頼朝。

旗揚げの当初は無くてはならない存在であったが、勢力内で権力を持つが故に邪魔になって行く。

私たちが生きる時代でも似たような排斥がしばしば行われる。命を奪われる心配は殆どないが。

 

下 鎭西九國住人等
可早爲鎌倉殿御家人 且如本安堵 且各引率追討平家賊徒事

右彼國之輩皆悉引率 可追討朝敵之由奉院宣所仰也 抑平家 謀叛之間 去年追討使 東海道者遠江守義定朝臣 北陸道者左馬頭義仲朝臣 爲鎌倉殿御代官 兩人上洛之處也 兼又 義仲朝臣爲平家和議 謀反之条 不慮之次第也 仍院宣之上 加私勘當 令追討彼義仲畢 然而平家令經廻四國之邊 動出浮近國之津泊 奪取人民之物 狼唳不絶者也 於今者 云陸地云海上 遣官兵 不日可令追討也者 鎭西九國住人等 且如本安堵 且皆引率彼國官兵等 宜承知不日全勳功之賞矣 以下

壽永三年三月一日

吾妻鏡 第3巻より

言いつける。九州の住人たちへ。

早々に源頼朝の家臣になって、一方では本領安堵し、一方では各々兵隊を引率して平家を追討すべき事。

右の通り彼の国の輩は全員引率し朝敵を追討するように院宣を承ったので、命令しているのだ。

平家が謀叛を起こしたので、去年の追討使は東海道の安田義定、北陸道の木曽義仲が頼朝様の代官として両人が上洛した。

そこで木曽義仲が平家と和議を結ぶ謀叛は考えてもいなかった。

よって院宣の上、私が勘当を加え義仲を追討したのである。

平家は四国の辺りで過ごしながら、時には近国の港に現れて民衆の物を奪い取る乱暴を働くことが絶えない。

今においては、陸海に兵を派遣し常に追討しなければならない。

九州の住人たちは本領安堵し、かつ皆を官軍として率いるので、承諾して手柄にするように命令する。

壽永3年(1184)3月1日

源頼朝が平家を殲滅するために九州の武士団に送った命令書。

この中に安田義定の名が出ている。あの木曽義仲と同列に語られているのだからかなりの影響力の持ち主だったのだろう。

 

十四日 癸亥 院宣 到來于鎌倉 可被遣義定朝臣也 彼朝臣背 綸命 二品殊可令加諷詞之趣 及御沙汰云々

當國小杉御厨 於神宮御領 已被下 宣旨畢 而自國司 有妨之由 所訴申也 尤不便 早如元可被奉免者依 院宣 執逹如件

九月二十四日 右馬頭 奉判 遠江守殿

吾妻鏡 第5巻より

文治元年(1185)10月14日癸亥

後白河法皇からの手紙が鎌倉に届いた。安田義定に伝えて欲しい。彼は命令に背いていると。頼朝様は特に注意するべきだと判断した。

当国の小杉御厨は伊勢神宮の領であることは朝廷から命令が通達されていた。それなのに国司が妨げていると訴えがあった。困ったので早く元の通りに戻すように。後白河法皇の命令は、ここにある通りです。

またまた安田義定の領地問題。

政治的な面では隙の多い人物だったのかもしれない。

 

廿一日 戊辰 遠江守義定朝臣 自彼國參上 日來於當國湖岩室已下山寺雖搜求豫州 不獲之由 被申之 則召御前遠州 被備三献 此間 頗及御雜談 二品仰云 遠江國有何事哉 義定朝臣申云 勝田三郎成長 去六日 任玄番助 是一勝事也 次爲見狩獵 向二俣山之處 鹿九頭 一列走通義定之弓手 仍義定并義資冠者 淺羽三郎等 馳駕 悉以射取之畢 件皮所令持參也 者與終 五枚献二品 三牧 進若公 一牧被志小山七郎朝光 只今 候御酌之故也 成長任官事 兼日無言上之旨 任雅意之條 尤奇恠 早可被糺行之由 被仰遠州所 赭面 無思慮申出事 有後悔氣歟云々

吾妻鏡 第6巻より

文治2年(1186)4月21日戊辰

安田義定が遠江国からやってきた。日頃から自国の湖や岩屋の山や寺で源義経を探し求めているが捕縛出来ていないと報告した。

頼朝様は席を用意し義定に酒を振舞った。この間、様々な雑談が交わされた。

頼朝様は『遠江国で何かあったか?』と義定に聞いた。

『勝田成長が玄番助に任じられたことが一番めでたいことです。次に狩猟のため二俣山へ向かったら、鹿が9頭も一列に私の弓手を通り過ぎました。そこで私と息子の義資、浅羽らと共に悉く射取りました。その皮を持ってきております。』と義定は答えた。

鹿の皮を5枚頼朝様に、3枚を若君に進め、1枚を小山朝光に渡しました。お酌をしてもらっているから。

頼朝様は『勝田成長の任官の事は、前もって伝えられていない。自分勝手に任じるのはけしからんな。早く正しい方法でやり直しなさい。』と言われた。

安田義定、少々顔を赤らめて『考えなしに話してはいけないな…』と後悔したとか。

壇ノ浦の戦いの後、頼朝と仲違いした弟の源義経の捜索について報告をする安田義定。

酒の席で義定が口を滑らせ源頼朝に叱られている。

談笑しながらも目の笑っていない頼朝様が想像出来る。

 

十九日乙卯 遠江守義定使者參著 於當國所領 今下人等引用水之處 近隣熊野山領住民等 相支之間 起闘亂 相互及刃傷 仍彼是搦進之云々 而熊野山 定申子細歟 其程稱可被召置 被返遣之云々

吾妻鏡 第8巻より

文治4年(1188)3月19日乙卯

安田義定の使者が参着した。

当国の所領で下人らが用水を引こうとしていたところ、近隣の熊野山領の住民らが邪魔をしてきたので、戦いが起きてお互い刃で切りつけ合うまでに及んだ。

『よってこれらを捕縛して送ろうか』と云っている。

『それだと熊野山が異議を唱えてくるだろうから、そちらで留めておけばいい』と伝え、使者を帰らせた。

自領でのトラブルの報告。

農家にとって用水の確保は死活問題である。

話し合いの席など設けずに事業を進め騒動に発展したのだろう。

 

腹切地蔵

十一日 乙巳 六條殿御作事 二品御知行國役者 爲親能奉行 以大工國時 欲被造進 遠江國所課事 被下御教書 今日到來 則被付彼國司義定

六條殿御作事之間 六條面築垣一町門等 可被造進 者依 院御氣色 執達如件

六月廿七日 權右中弁
遠江守殿

吾妻鏡 第8巻より

文治4年(1188)7月11日乙巳

六條殿の工事に建築工事の事。

頼朝様の支配している国の方々の役目は、中原親能を奉行として棟梁の国時に造らせるようにした。遠江国の割り当ての事。手紙を出され今日届いた。すぐに国司の安田義定に伝えた。

六條殿の建築工事について。六條に面して一町の垣を築き、門を造るように。

後白河院の願いなので、よろしく。

建築のお仕事。

 

十日 甲午 遠江守義定 去月廿五日 被遷任下総守訖 是外雖給替國 内有背叡慮事等之故也云々 遠州者 重任送多年之上 殊執思之處 今此事出來 愁歎尤難休之由 申二品之間 可令執奏歟之趣 被副御書義定状 差飛脚 令進上給 行程被定五箇日云々

吾妻鏡 第10巻より

文治6年(1190)2月10日

安田義定は去る月の25日に下総守に遷任されてしまった。これは表向きには大国を与えられたと云われているけれど、実際には朝廷の考えに背くことがあったからだとされている。

遠江守を長年務められたのは、大切に思われて来たからであったが、今回このようなことになった。

辛くて仕方が無いと頼朝様に申してきたので、上奏の文に義定の書状を添えて飛脚に『5日で送るように』と命令して朝廷へ送らせた。

税の滞納や普請の遅延を咎められたため源頼朝の取り次ぎに弁明書を添えて朝廷に提出したのだが…。

 

廿五日 庚子 下総守義定申條々事 勅答之趣 權中納言經房所被執進院宣 右大辨宰相定長奉書也 義定 令拜見之 愁緒彌斷腸云々 其状云

二位殊書状 并義定申状等 奉聞候畢 遠州在國之間 公事所濟 目録申上候畢 諸國宰吏 不勤此程公役哉 偏可押領之由 存知歟 於在京國司者 或數濟物之上 相營恒例臨時課役 其外又所抽勤節也 於義定者 無殊忠之上 諸國遂日亡幣 非尋常之國 知行之仁 加之仁 六條殿造營之時 諸國皆領状 一國有申旨 輙不承諾 依二品譴責 憖勤仕 私物詣之間 雖過京洛 不言上事由 諸國吏上洛之時 密々下向 未聞食習事歟 如此事等雖不能仰遣 大概所被仰也 七箇年知行之後 被遷任他國 豈非御憂恕哉 子細猶廣元下向之時 可被仰之由 且可仰遣二位卿許之由 内々御氣色候也 仍上啓如件

二月十八日 右大辨
謹上 權中納言殿
遂上啓
義定文書等 可返遣之由所候也

吾妻鏡 第10巻より

文治6年(1190)2月25日

安田義定が申す箇条書きの事、後白河法皇からのお答えを吉田経房が取り次ぎ、定長が命じられて書いた手紙である。

義定はこれを読んで嘆き悲しんだ。

その手紙が云うには。

『頼朝殿の書状、安田義定の書状を取り次ぎました。

遠江国にいる間の税関連の書類を見ました。諸国の国司はこの程度の仕事も務められないのですか。みんな横取りして滞納していると知っていますか。京都の国司は上納しながらも、その他の負担もして朝廷に尽くしています。

安田義定においては、特別な忠義もなく、国は日を追って衰退しています。まともに国を治められる道理はありません。

それに加えて、六條殿を造営の際、諸国のみんなは了承したが、誰かさんは言いたいことがあるようでなかなか承諾せず頼朝殿のお叱りによって嫌そうに務めました。

また貴方は私用で参詣の際、京都を通ったのに、朝廷に対して何の一言も無かった。諸国の役人が上洛の時にコッソリと帰られましたね。こんなことは聞いた事もありません。

このようなことは云う必要もないと思いましたが、大概はそういうことです。

遠江国を7年間支配した後、他の国に移封です。大目に見てやっているではないですか。

詳細は大江広元が帰ったら伝えます。一先ず頼朝殿に伝えるようにお願いされたので、このように書きました。』

安田義定の書状は返却するように。

いちのまる
いちのまる

朝廷辛辣…。安田義定がちょっとかわいそう。

粗暴で勇敢な鎌倉武士の面影は何処に行った?

社会に痛めつけられる現在のサラリーマンと大して変わらないように思える。

その後、赦されたようで遠江守に返り咲いている。

 

廿八日 辛夘 僧正被歸洛 今夕越後守義資 依女事梟首 所被仰付于加藤次景廉也 其父遠江守義定 就件縁坐蒙御氣色云々 是昨日御堂供養之間 義資投鶴書於女房聴聞所訖 而顧後害 敢無披露之處 梶原源太左衛門尉景季妾号龍樹前 語夫景季 又通父景時 々々言上將軍家 仍被糺明偽之時 女房等申詞 苻号之間 如此云々 三年不窺東家之蝉髪者 一日豈遭白刃之梟首哉

吾妻鏡 第13巻より

建久4年(1193)11月28日

大僧正が京都へ帰られた。

今日の夕方、安田義資が女の事で首を切られる。加藤景廉が処罰を命じられた。その父、安田義定もこの件の縁座となってしまった。

昨日の永福寺薬師堂供養で女が説法を聞いている最中に安田義資が恋文を投げ入れた。女は後々の災難を恐れ、敢えて表沙汰にしなかったが、梶原景季の妾が夫に語り、それを父の景時が聞き、景時は頼朝様に報告した。

これを受けて真偽の糾明を行うと、女たちの言い分と合致したので、このようになってしまったと云う。

永福寺は奥州合戦で戦死した霊を弔うために建立された寺院であった。薬師堂完成による供養の席に相応しくない行動が源頼朝の逆鱗に触れてしまった。

命を奪うまでの事ではないように思えるが、安田義定・義資父子の失脚を狙う政敵の讒言や源頼朝自身も彼らを排斥したかったのかもしれない。

 

五日 戊戌 被収公遠江守義定所領 當國淺羽庄地頭職 以景廉被補其替 今日賜御下文 大藏丞頼平 奉行之云々

吾妻鏡 第13巻より

建久4年(1193)12月5日

安田義定の所領、遠江国浅羽庄の地頭職を取り上げ、加藤景廉をその替わりに当てた。

今日、正式な書面を賜る。大蔵丞の頼平が担当した。

とうとう所領と地頭職を取り上げられてしまった。

ちなみに甲斐源氏は安田義定だけでなく他の一族も粛清の対象となっている。

挙兵当初は家臣ではなく同盟相手だったので、忠誠心が弱く扱いが難しかったのかもしれない。

 

十九日 丁未 安田遠州梟首 者爭被誅子息義資 収公所領之後 頻歌五噫 又相談于日來有好之輩類 欲企反逆 縡已發覺云々

遠江守從五位上源朝臣義定 年六十一

安田冠者義清四男

壽永二年八月十日 任遠江守 敍從五位下

文治六年正月廿六日 任下総守

建久二年三月六日 還任遠江守

同年月日 敍從五位上

吾妻鏡 第14巻より

建久5年(1194)8月19日

安田義定が首を切られる。

子息の義資が誅殺され、領地を没収された後、頻りに愚痴を言い、また仲の良い輩と相談し、謀反を企てようとしたことが発覚したからだと云う。

今回紹介した腹切地蔵尊は安田義定の生害の地と伝わるが、他にも幾つか同様の言い伝えの残る場所があるようだ。

吾妻鏡には梟首とあるので斬首の後、晒されたか?

たぶん腹は切っていないのではないかと思う。

 

終わりに

腹切地蔵

当初はここまで引用するつもりはなかったけれど、時を忘れて読み書きに耽ってしまった。

吾妻鏡を読むと安田義定の性格や能力に問題があったように読み取れなくもないが、これは鎌倉幕府の人間が編纂した書物だから偏見が入っている可能性も大いにある。といってもこれ以上に安田義定についての記述がある書物はないだろうから頼らざるを得ないのだけれども。

さて、腹切地蔵尊の近くでは幽霊が出るらしい。安田義定が化けて出るのだろうか?

確かに未練たらたらで処刑されたようだし、現世に対しての執著は強かったに違いないので、本当にここで亡くなられているのであれば出ても不思議でないか。

もしそうだとしたら800年もの間、本当にお疲れ様です。

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