
ここは福岡県宗像市山田。
戦国時代に起きた宗像大宮司家のお家騒動『山田事件』の舞台です。

山田事件に関係する場所

山田地蔵尊増福禅院に駐車場があります。ここを拠点に動くとよいでしょう。
山田事件について

宗像大社の大宮司として名を馳せた宗像氏は戦国時代になると、中国地方の覇者・大内義隆の傘下に入ります。
1551年に大内氏の重臣・陶晴賢が謀反を起こし大内義隆が自害させられます。これを大寧寺の変といいます。
その際、義隆に従っていた宗像氏当主の氏男が戦死しています。

当主を失ったことで宗像家中は混乱に陥ります。
跡継ぎをどうするか?候補は次の二人です。
・先代の宗像正氏の庶子である鍋寿丸
このタイミングで山田事件が起こります。

陶晴賢は陶氏と血縁関係の鍋寿丸を支援します。強引に鍋寿丸を宗像氏の白山城に送り込み当主として認めさせるよう推し進めます。そして反対派閥のなかで影響力のある人物を暗殺します。
1552年、陶晴賢の指示により宗像正氏の娘で氏男の妻・菊姫、正氏の正室で菊姫の母・山田局、菊姫の侍女4名・花尾局、小夜、三日月、小少将が暗殺されました。
菊姫は18歳。山田局は53歳であったといいます。

その後この六人の婦女子の怨霊の崇りものすごく、野中勘解由、嶺玄蕃等を手始めにこの惨劇に加担した者はむろん、その後一族ことごとく変死あるいは怪死するなど、宗像一円は「九州一の怪談」と言われるほどの大惨劇を演ずるにいたったのである。
山田地蔵尊 増福院『山田地蔵尊由来』より
野中勘解由、嶺玄蕃は暗殺実行犯です。
宗像氏を継いだ氏貞(鍋寿丸)は呪いを恐れ社を建てたり大法要を開いたりしたそうです。それでも怨霊の怒りは治まりませんでした。氏貞死後、6人の霊を鎮めるため増福院が建立され六地蔵を本尊として祀りました。
こうして6人は怨霊から神仏に昇華し、現在の山田地蔵尊は安産子育、厄除や子供の息災、諸病平癒の御利益があるとされ多くの参拝者が訪れています。

山田事件の登場人物のその後が気になったので調べました。
山田事件を仕組んだ人物です。
大寧寺の変を起こしたあと大内義長を擁立し実権を握ります。しかし1555年に厳島の戦いで毛利元就の奇襲を受け敗北、自害しています。山田事件から3年しか経っていないうちに亡くなっています。
これも呪いか?!
山田事件が起きたとき氏貞はまだ7歳でした。当時は何が起きているか理解していなかったと思われます。
宗像氏の家督を継ぎます。大内氏が滅亡した後は豊後大友氏と毛利氏の間を右往左往しています。豊臣秀吉の九州平定(1586年)の前に亡くなっています。
大分県の英雄・雷神さまを怒らせて不幸な目に会っています。
これも呪いか?!
宗像氏貞(鍋寿丸)と家督争いした人物です。かなり幼かったようです。
菊姫の夫・氏男の弟で父親は宗像氏続といいます。
山田事件と同時期、命の危険を感じた氏続は英彦山に逃亡するも追手に発見され屠られます。
千代松は母親に抱かれながら身を隠しますが、これも追手に見つかり命を落としています。
彼らもお家騒動の被害者ですから怨霊の一部だったのかもしれません。
山田事件にまつわる心霊スポット

紹介する心霊スポットは菊姫の首塚と称されていますが、正式名称は乳授け地蔵です。
菊姫の首塚ではありません。しかし山田事件に関係のあるお地蔵さまだそうです。

釣川の源流の近くにあります。
駐車場はありません。


マムシが怖いので棒を拾って足元を叩きながら歩きました。
あと虫がヤバいです。

こちらが乳授け地蔵です。
菊姫の乳母が山田の里から抜け出し郷里の山口村に逃げる途中、追手に捕まり殺害された場所と伝えられています。宗像市の吉武地区のパンフレットにその様なことが書かれていました。

ですから心霊スポットというのはちょっと違う気がします。
終わりに
以上が宗像市の怨霊伝説・山田事件についてでした。
歴史ある曰くつきの場所は私にとって御馳走です。
ウキウキ、ワクワク。ちょっとドキドキしながら訪問して、風景と説明板の写真を見返しながら黙々とブログ記事に落とし込む。
なんて有意義な時間なんだろうか。
おしまい!
当ブログ内の心霊スポットランキングを作成しました。
興味がある方はご覧下さい。なお、この記事は適宜更新いたします↓
今回は山田事件にまつわる心霊スポットがあると知り探索してきました。まずは事件の歴史とそれに関する史跡を紹介致します。そして最後に心霊スポットと噂される場所をお見せします。
それでは参りましょう!