心霊スポット・菊姫の首塚とは?宗像大宮司家に纏わる怨霊伝説の根源、山田事件の歴史について

菊姫首塚

ここは福岡県宗像市山田。

戦国時代に起きた宗像大宮司家のお家騒動『山田事件』の舞台である。

この騒動により女性6名の罪なき命が奪われた。

凄惨で余りに無常な出来事だったため当時から現在に至るまで怨霊伝説が語り継がれている。

今回は山田事件に纏わる心霊スポットがあると聞き付け探索に乗り出した。

山田事件の概要とそれに関する史跡を紹介し、最後に心霊スポットと囁かれる菊姫の首塚の真実を紹介しよう。

 

山田事件について

菊姫首塚

宗像大社の大宮司として名を馳せた宗像氏は戦国時代になると中国地方の覇者・大内義隆の傘下にいた。

1551年(天文20)、大寧寺の変が発生。

大寧寺の変は大内氏の重臣・陶晴賢が謀反を起こし当主の大内義隆を自害させた事件で、これによって中国地方・九州地方の大名家に激震が走った。

 

菊姫首塚

大寧寺の変で大内義隆に従っていた宗像氏当主の氏男がまさかの討ち死に。

突如として当主を失った宗像氏は大混乱に陥ったが、家の存続のためには直ぐにでも後継ぎを決めなければならなかった。

そこで候補に選ばれたのが以下の2名。

・当主・宗像氏男の弟である千代松

・先代・宗像正氏の庶子である鍋寿丸

このタイミングで山田事件は勃発した。

 

菊姫首塚

大内義隆を殺害した陶晴賢は大内義長(大友宗麟の弟)を擁立し傀儡とした。

晴賢は宗像氏の相続問題に介入し、自家と血縁関係のある鍋寿丸を支援。強引に鍋寿丸を宗像氏の白山城に送り込み当主として認めさせるよう推し進め、邪魔者は粛清していった。

1552年(天文21)、陶晴賢の指示により宗像正氏の娘で宗像氏男の妻・菊姫、正氏の正室で菊姫の母・山田局、菊姫の侍女4名・花尾局、小夜、三日月、小少将が暗殺された。

菊姫は18歳。山田局は53歳だったと云う。

写真は山田地蔵尊の南にある菊姫と山田局の墓石。

 

菊姫首塚

その後この六人の婦女子の怨霊の崇りものすごく、野中勘解由、嶺玄蕃等を手始めにこの惨劇に加担した者はむろん、その後一族ことごとく変死あるいは怪死するなど、宗像一円は「九州一の怪談」と言われるほどの大惨劇を演ずるにいたったのである。

山田地蔵尊 増福院『山田地蔵尊由来』より

陶晴賢の計画通り宗像氏を継いだ氏貞(鍋寿丸)。彼は諍いの被害者の祟り恐れ社を建てたり大法要を開いたりしたが、それでも怨霊の怒りは一向に治まらず、不幸は続いた。

氏貞の死後に6人の霊を鎮めるため増福院が建立され六地蔵を本尊として祀った。こうして6人は怨霊から神仏に昇華のである。

現在、6人の婦女子を祀った山田地蔵尊は『安産子育・厄除』や『子供の息災・諸病平癒』の御利益があるとされ多くの参拝者が訪れている。

写真は菊姫・山田局墓所のすぐ近くにある侍女4名の墓石。

 

菊姫首塚

山田事件の登場人物のその後が気になったのでざっくり調べてみた。

・陶晴賢

山田事件の元凶。

大寧寺の変を起こした後、大内義長を擁立し実権を握る。しかし1555年(天文24)に厳島の戦いで毛利元就の奇襲を受け敗北し自害。

山田事件から僅か3年の内に亡くなった。

・宗像氏貞(鍋寿丸)

山田事件が起きたとき氏貞はまだ7歳だった。当時は何が起きているか余り理解していなかったと思われる。宗像氏の家督を継ぎ、大内氏が滅亡した後は豊後の大友宗麟と安芸の毛利元就の間を右往左往した。

豊臣秀吉の九州平定(1586年)の前に亡くなった。

・千代松

宗像氏貞(鍋寿丸)と家督争いした人物。

菊姫の夫・氏男の弟で父親は宗像氏続。山田事件が勃発した際に命の危険を感じた宗像氏続は英彦山に逃亡するも追手に発見され殺害されている。

千代松は母親に抱かれながら身を隠したが、父と同様に追手に見つかり命を落とした。

 

山田事件にまつわる心霊スポット

菊姫首塚

今回、紹介する心霊スポットは菊姫の首塚と称されているが、正式名称を乳授け地蔵と言う。

菊姫に関する石仏ではあるけれども、菊姫の首塚という名称では無い。

乳授け地蔵は山田地蔵尊からまあまあ離れた場所にある。

 

菊姫首塚

近くに釣川の源流がある。駐車場は無い。

私は路上駐車して徒歩で向かった。

なかなか見つからなかったのもあって片道30分は歩いたと思う。

 

菊姫首塚

夏の訪問だったので虫が襲来が凄まじかった。

マムシが出そうなので木の棒を広い足元を叩きながら進むことにした。

 

菊姫首塚

こちらが乳授け地蔵。

山田事件で身の危険を感じた菊姫の乳母が里から抜け出し郷里の山口村に逃げ帰る途中、追手に捕まり殺害された場所と伝わる。

宗像市の吉武地区のパンフレットにその様なことが書かれていた。

始めは菊姫の乳母の霊を鎮めるために建立されたのだろうが、いつの頃から乳母としての特性が御利益として信仰されるようになった。

六地蔵の6名と同様に神仏に昇華したと思いたい。

 

終わりに

以上が宗像市の怨霊伝説・山田事件についてである。

歴史のある曰くつきスポットが大好物な私は時間を忘れて当地を彷徨い歩いた。

山田地蔵尊増福禅院の裏山に白山城と呼ばれる宗像氏の居城跡があるのだが、それに登城出来なかったのが悔やまれる。

冒頭に”当時から現在に至るまで怨霊伝説が語り継がれている”と書いたけれど、怨霊から神仏に昇華したと考えれば畏れの気持ちはあったとしてもむやみやたらに怖がる必要はないと思う。

コメント

  1. 鳥島 より:

    山田事件のお膝元の小学校に通っていました。山田のお地蔵さんは遠足で何度か行きましたが、野中さん、峯さんは頑なに欠席で先生も「仕方ない」って対応でした。宗像家の家老の子孫?石松さん、吉田さんも半数くらいは不参加。吉田分家の山路さんはほぼ不参加でした。
    現在でもこれらの家の方は山田地区で仕事が入った場合は他の業者さんに回すことが多いです。
    宗像では歴史がある面々ですので、現在栄えてる方も多く「もう許された」って解釈されている方も多いですが、増福院さんに寄進はしても足は踏み入れないって感じで現在も気にされています。

    • いちのまる より:

      鳥島 さん

      コメント&Twitterのフォローありがとうございます!

      めっちゃ貴重な情報ですね。
      やはり現在までも伝説は残り続けているのですね

      良いか悪いかは別として、これも伝統の一つなのでしょう。

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