新府城跡について。凄惨な歴史が生み出した心霊スポットだった?!

惨劇の城として知られる新府城。

・落ち武者の幽霊が彷徨っている。

・着物を着た真っ赤な顔をした女性が子供を連れて歩いてくる。

などの心霊現象があると云う。

一部の界隈では、数多くある心霊スポットの中でも取り分け恐怖度が高いと人目置かれている。

この城で一体何が起こったのか?

歴史を振り返ってみよう。

新府城の悲しい歴史

新府城入り口

甲斐国の戦国大名・武田信玄が病没した後、後継者の武田勝頼は敵対する織田信長や徳川家康の領地に攻め入り高天神城などを攻略した。

乗りに乗っていた勝頼だったが、1575年の長篠の合戦で鉄砲を巧みに操る織田、徳川軍に大敗し命からがら逃走してしまう。

勝頼は敵の領地侵攻を防ぐため、それまで武田氏が代々居城にしていた躑躅ヶ崎館の代わりに新しく城を築いた。

それが新府城である。地名から名を取って韮崎城とも呼ばれている。

 

新府城 復元図

武田勝頼は1581年に躑躅ヶ崎館から新府城に移動している。

次なる戦の準備を整えている最中、美濃・飛騨の国境沿いを治めていた木曾義昌が裏切り織田信長の傘下に。

岐阜方面の玄関口を敵に取られてしまったわけだ。

勝頼は軍勢を率い諸口の守りを固めたが、織田・徳川軍の攻撃を防ぎきれず1582年3月、新府城に火をつけて脱出する。

三月三日卯刻、新府の館に火を懸け、世上の人質余多これあり、焼籠にして罷退かる。

人質噇と泣き悲しむ声。天にも響くばかりにて、哀れなる有様、申すは中々愚かなり。

信長公記 巻十五 武田四郎甲州新府退散の事より

3月3日朝方、新府城に火を放ち、数多の人質を焼き殺し退却した。

人質の嘆き悲しむ声は天にも響くばかりで、哀れな有様は言葉に言い表せない程であった。

勝頼が移城してから約2ヶ月後のことである。

 

新府城 本丸

行先の選択肢は2つ。

・真田昌幸が守る群馬県の岩櫃城。

・小山田信茂が守る山梨県の岩殿山城。

武田勝頼は後者を選んだのだが……。これが最悪の決断だった。

勝頼一行は命からがら岩殿山城に到着する。しかし城門は固く閉ざされていた。更に城内から威嚇射撃を受け退却を余儀なくされる。

小山田信茂の裏切りである。

止む無く甲府を目指し天目山に退却する勝頼。しかし信長の家臣・滝川一益に発見され、万事休す。天目山で自害し武田氏は滅亡した。

以上が新府城の歴史&武田勝頼の最後である。

 

本丸跡 長篠の戦い戦没者碑

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新府城跡には長篠の戦いで戦没した武田氏重臣の慰霊碑がある。

・横田 康景(よこた やすかげ)
信玄、勝頼に仕えた足軽大将。

・甘利 信康(あまり のぶやす)
鉄砲衆。信玄存命時は本陣の守備をしていた。

・土屋 昌続(つちや まさつぐ)
譜代家老(代々仕えていた/家臣の最高役職)。壮絶な最期を遂げる。

・高坂 助宣(こうさか すけのり?)
高坂弾正に近しい誰か。よくわかっていない。

・内藤 昌豊(ないとう まさとよ)
武田四天王の一人。敗戦後、勝頼を逃がすために殿を務め戦死。

・原 昌胤(はら まさたね)
一度失脚したが復職。その後、戦死。武田二十四将の一人。

・武田 信実(たけだ のぶざね)
信玄の異母兄弟。長篠城を監視できる砦に配属。

・馬場 信房(ばば のぶふさ)
武田四天王の一人。超頭が良くて強い(私のイメージ)。武田氏3代に仕えた男。

・山県 昌景(やまがた まさかげ)
武田四天王の一人。戦上手な印象。赤備え(あかぞなえ)で有名。徳川家康家臣の井伊直正が引き継いだ。

・高坂 昌澄(こうさか まさずみ)
高坂弾正の長男。上杉謙信を抑える父の代わりに出陣。

・真田 信綱(さなだ のぶつな)
真田一門。真田昌幸の兄。勇猛な武将。昌幸は兄を尊敬していたと云う。

・真田 昌輝(さなだ まさてる)
真田一門。信綱の弟。33歳の若さで戦死。この兄弟が生き残っていたら真田氏はまた違った歴史を歩んだかもしれない。

・小山田 昌輝(おやまだ のぶしげ)
小山田信茂(離反で武田家を滅ぼした)の弟か?

・五味 貞氏(ごみ さだうじ)
浪人衆の組頭。奇襲攻撃され討ち死に。

終わりに

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これは武田勝頼の霊社。

『人質の惨殺』と『武田氏の滅亡』が新府城の怪奇現象を生んだ根拠になっているのであろう。

以上!

コメント

  1. 剣刀太子王 より:

    この静かな山村の道にたっぷりと流された血の意味は、こんにちどう評価すべきものになったのだろう。
    百年の後にとか、棺を覆うて後にとかいうが、立場が違うと今でも歴史は動揺を続けたままで、ひとつの真実は得難いものらしい。
    ………私が好きなとある郷土史家の言葉より(元々は下仁田戦争についての文章から)

    • いちのまる より:

      剣刀太子王 さん

      深いお言葉ですね。
      それぞれの正義がありますからね。

      私は歴史家でも何でもないので、出来るだけ中立な考えを保つようにしています。

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