高崎市の観音山丘陵にある百庚申を巡りました。
庚申塔に興味をお持ちの方は少ないかもしれませんが、掘り下げて調べてみると昔の人々の生活が垣間見れてなかなか楽しいものです。
庚申については下仁田百庚申でまとめましたので、この記事をご覧になる前に一読していただくとわかりやすいかと思います。
館の百庚申
場所は群馬県高崎市寺尾町1768です。
高崎市のホームページに掲載されているので見つけやすいと思います。
館の庚申塔は1798年(寛政10)から庚申の年である1800年(寛政12)の間に建立されました。
庚申信仰の本尊の一つとされる青面金剛。インド仏教由来の尊像ではなく中国道教由来の尊像です。青面金剛は三尸を押さえつける人間にとってありがたい神様なのです。
三尸と書かれた庚申塔は初めて見たかもしれない。梵字は青面金剛を表す「ウーン」ですね。
建立当時の群馬は書道が盛んでこれらの塔の文字には有名書家のものも多いそうです。
史跡指定当時(昭和50年)には下仁田の高橋道斎、吉岡町華蔵寺の歙浦(えんぼ)が見られたそうです。現在確認できる書家は高崎本町の梶山彭(ぼう)、持田盾等と少なくなっています。館の庚申塔 説明板より
高橋道斎は1718年(享保3)から1794年(寛政6)を生きた書家です。多胡碑(日本三大古碑)の書道的価値を見出し世に紹介。現在にも続く多胡碑研究の発端となりました。また俳人としても活躍して松尾芭蕉の句碑を建てたという話も残っています。
歙浦は浄聖院亮衍の号(ペンネーム)だと思われます。1738年(元文3)に生まれ1806年(文化3)に京都で没しました。もともとは修験(修験道という山に籠って修行する僧)。国学者でもあり貴重な書物を蒐集した獅子園書庫という秘庫を創設。弟の角田無幻も書聖と呼ばれ凄い人でした。
梶山彭、持田盾についてはわかりません。
上奥平百庚申
上奥平百庚申は歩道に沿ってきれいに庚申塔が配置されています。
1800年(寛政12)に当時の有力者であった茂原三郎左衛門が村人に指示を出し建立されたとあります。
階段に沿ってこんな感じに並んでいます。様々な書体の庚申塔がありました。
庚申塚の頂上にある親庚申(メインの庚申塔)。
村人たちの庚申様に対する信仰が篤かった証拠でしょう。何せこんな重そうな岩塊を運んでくるわけですから。

私なら「やってらんないよ!」って陰口を叩いてしまうところだね。
左から三笠山大神、御嶽大神、八海山大神と彫ってあります。
これは山岳信仰が盛んであったことを表す碑です。
「最初の王」的な意味らしい。ちょっと難解なのでこれ以上はムリ。
「さ」=稲霊(稲の精霊)、「つち」=土という意味で農耕を司っているといわれています。諸説ありすぎてムリ。
大地の意味や日本が常に立ち続けるといった意味があるそうです。大己貴命は大国主のこと。出雲大社の祭神で有名ですね。少彦名命は大国主を手伝った山の神様。
テストに出そうなところを赤くしてみました。
庚申信仰とは別の話になってしまいましたが山岳信仰の石碑もちらほら見るので勉強してみようかと思います。
ただすごく難しい……。
乗附百庚申
これは2015年(平成27)8月5日に林道乗附線を通った時に撮影したものです。
当時は百庚申の存在を知らなかったので「不気味だな~」くらいの気持ちで撮影しました。
そして今回訪れた様子↓
撤去されていてビックリ。どこへ行ってしまったのでしょう。
知っている方いたら教えてください!
石碑が背もたれにしていた跡がまだ残っていますね。
実際石碑を見たわけではないので庚申塚だったのかも正直わかりません。
一番目立っている塔に参界萬霊有縁無縁之塔(さんがいばんれいゆうえんむえんのとう)と書かれていたので2015年当時は古いお墓が集まっているのかと思っていました。
参界萬霊有縁無縁之塔はすべての人を供養しますという意味だと思います。供養には色々な意味があるのですが、供養と聞くとどうしても死者がらみの話に聞こえてしまいますね。
乗附交流館前庚申塚
お目当てがなくなっていたことにガックリしていたのですが同じ乗附地区にもう一つ庚申塚を発見しました。基数が少ないのと、庚申信仰とは関係のない石碑があるので百庚申とはいいがたい。乗附交流館で検索すると付近の地図を見つけられます。左から二番目の道祖神には1763年(宝暦13)、右の庚申塔には1800年(寛政12)彫られています。
馬頭観音と地蔵菩薩。
ここはきれいに管理してありました。この塚は比較的最近作られたものなのかな?
もしかして上述したなくなった百庚申から数基移転したとかあるかもですね。
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