里見公園の衝撃的な過去を調査!古戦場でもあり怪奇伝説も残る、更には殺人事件の現場でもあった…。

里見公園

千葉県市川市国府台にある里見公園。

奥深い歴史の感じられる良い公園である。

私が紹介するという事は当然ここに心霊スポットの噂があるのだが、何が根拠となっているのだろうか?

当地の歴史を辿り真相に迫ってみようと思う。

 

里見公園へのアクセス

里見公園

最寄り駅は京成本線・国府台駅。

凡そ1.5kmで徒歩15~20分程で着く。

駐車場も完備されているので自家用車でも問題ない。

 

 

里見公園の過去

里見公園

里見公園内の明戸古墳は6世紀後半頃の前方後円墳である。

室町時代、当地に太田道灌が仮陣を敷いた後、道灌の弟(或いは甥)の太田資忠が国府台城を築いたと伝わる。

後円墳に安置されている石棺は築城の際に露わになったものだとされている。

中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。其頃櫃中より甲冑・太刀の類、および金銀の鈴・陣太鼓、其餘土偶人等を得たりとて、今其一二を存して、總寧寺に収藏せり。

江戸名所図会 巻七 國府臺古戰場より

江戸名所図会の後半が刊行されたのが1836年(天保7)であり、この時点で中古と書かれているから国府台城が築かれたときに発見されたと云うのもあながち誤りではないのかもしれない。

 

国府台城の築城について

里見公園

既に上で述べたが、ここには国府台城があった。

此時令退治自胤を取立テ両総州ノ侍過半自胤ヘ付テ千葉一跡ニ令相続カタメニ両上杉ヨリ加㔟アリテ成氏ヘ此ヨシ得内意ヲテ太田道灌下総国府臺ニ陣取カリ陣屋ヲカマヘケリ

鎌倉大草紙より

そこでこれを退治して、千葉自胤を取り立て両総州の侍の過半を自胤に付け千葉家の跡を相続させようと足利成氏の了承を得て両上杉家から加勢し、太田道灌は国府台に陣を構えた。

くっそややこしい享徳の乱(1455年~1483年)の一場面(長尾景春の乱)。

両上杉家(山内・扇谷)と古賀公方・足利成氏の和議が成り、残る敵は長尾景春、臼井城の千葉孝胤となった。

千葉自胤を千葉家の当主として担ぎ上げ、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が境根原合戦で千葉孝胤を攻略する。

いちのまる
いちのまる

太田道灌が境根原合戦のちょっと前に築いた陣屋が国府台城の前身ではないかと云われているみたい。

 

公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代より後の時代に属する、とする推測もある。

現地案内板より

先に”道灌の弟(或いは甥)の太田資忠が国府台城を築いたと伝わる。”と書いたが出典はわからない。

城を紹介するサイトに決まってこのように書かれていたので便乗した訳だけれども、現地の案内板には具体的なことが記されていなかった。

 

国府台合戦について

里見公園

心霊スポットの噂の根拠の一つに国府台合戦がある。

国府台合戦は戦国時代に起きた国府台城を巡る戦いで二度行われた。

 

第一次国府台合戦

里見公園

1538年(天文7)、小弓公方・足利義明(真里谷信応、里見義堯)vs後北条氏の争い。

後北条方の勝利に終わり足利義明は戦死した。

結果、後北条氏が下総国に進出、戦いに消極的であった里見義堯は勢力を保ったまま上総国で地位を確立していく事になる。

 

第二次国府台合戦

里見公園

1564年(永禄7)、里見氏vs後北条氏の争い。

又、永祿七年には、太田新六郎康資兄弟の輩、小田原に背き、同苗美濃守資正入道山樂齋、及び里見安房守義弘等と此地に屯しければ、小田原より討手として、遠山丹波守・同隼人佐をむかはしむ。
故に太田兄弟相圖相違して、武州岩附へ落ち行きけり。
然るに北條氏康父子、小田原より馳せ向ひ、同年正月七日・八日大に戰ふ。
依て義弘山樂の輩、終に敗走す。

江戸名所図会 巻七 國府臺古戰場より

引用文の小田原は後北条氏(北条氏康)のこと。

後北条氏の家臣であった太田康資は同族の太田資正の誘いに乗り上杉謙信の傘下に入った。

謙信はこれらを守るため房総半島の里見氏に援軍を要請。

国府台城に布陣した里見義弘は後北条方の富永直勝・遠山綱景を打ち破り緒戦の勝利を飾るが、後から駆け付けた北条氏康父子の本隊に敗北し撤退している。

この戦いにより里見氏は安房国へ追い込まれ非常に苦しい情勢となった。

写真の石碑は第二次国府台合戦に纏わるものである。

この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死する者五千名とつたえております。
その後里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政十二年(一八二九)に至って里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。

里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑案内板より

 

夜泣き石について

里見公園

3つの石碑の傍らに夜泣き石と呼ばれる小さな石が安置されていた。

これは第二次国府台合戦で戦死したと伝わる里見広次(弘次)に関係している。

里見広次の娘が父を弔うために安房の国から遠路遥々赴いた。
幼かった娘は凄惨な戦場跡を目の当たりにしてショックを受け、石に凭れて泣き続けやがて死んでしまった。
それからというものの、この石の付近からシクシクと泣き声が聞こえるようになったそうな。
後年、一人の武士が娘を憐れみ供養してから泣き声は止んだと云う。

城跡は安国山総寧寺に

里見公園

1663年(寛文3)、徳川4代将軍・家綱の代に安国山総寧寺が関宿内町(千葉県野田市)から国府台城跡へ移転される。

安国山総寧寺はもともと近江国(滋賀県)にあった由緒正しき寺であった。

1383年(永徳3)に近江国の佐々木氏が通幻禅師を招聘して建立したのが始まりと伝わり、紆余曲折あって当地に鎮座する。

江戸時代の国府台一帯は田畑の広がる農村だったそうだ。

 

明治以後は?

里見公園

明治時代以降の国府台は大日本帝国陸軍が注目し土地が利用されることとなる。

現在の里見公園の場所には陸軍の病院が建てられた。

この病院はここから東に約500mの距離にある国立国際医療研究センター国府台病院の前身になる。

1922年(大正11)~1933年(昭和8)の間には里見八景園という大規模な遊園地があったそうだ。

里見公園の北側部分に滝や池があるのはこれの名残とのこと。

太平洋戦争時は陸軍に関係する土地柄だったため多くの防空壕が掘られ、戦後に埋め立てられた。

1958年(昭和33)、里見公園が整備され現在に至る。

 

里見公園と事件

里見公園

『里見公園 事件』でネット検索すると公園内で女性が殺される事件があったと紹介するサイトがあった。

どれも詳細は記されていないので、でっち上げだろうと高を括っていたが…。

1958年(昭和33)7月7日、読売新聞夕刊
7日午前5時45分頃、里見公園内の旧防空壕の北側斜面に17、8歳の女性がベルトで首を絞められた遺体が発見された。
暴行の跡は無かったが、上着は見当たらず腕時計や他の所持品が盗られていた。
1963年(昭和38)4月2日、読売新聞朝刊
1日午後8時30分頃、里見公園入口の市道で2人の男性が心臓の辺りを刃物で刺され死んでいた。
その後、殺人事件として捜査が開始された。
1994年(平成6)7月21日、朝日新聞朝刊
20日午後3時55分頃、里見公園下の江戸川でコンクリートが詰められているドラム缶が発見される。
砕き内部を確認すると白骨化した人間の頭が見つかった。

※引用が禁止されているので言葉を変えて要約した。

なかなかに凄惨な事件が起きている場所のようだ。

なるほど、こんな感じであれば幽霊云々の話が流れてしまうのも仕方が無いのかもしれない。

 

終わりに

里見公園

水上勉の推理小説『巣の絵』で里見公園が殺人事件の舞台となっている。

詳しく調査する前は『小説が心霊スポットの噂の原因になったのだろうな』と思っていたけれども、まさか本当に殺人事件が起きた現場だったとは思いも寄らなかった。

それに加え戦国期の古戦場跡と来たものだから根拠は十分過ぎる程である。

数多くある心霊スポットの中でも衝撃的で印象に残る場所となった。

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