
千葉県市川市国府台にある里見公園。
この里見公園には、心霊スポットとしての噂が流れています。一体、何がその根拠となっているのでしょうか?
今回は、当地の歴史や過去の出来事を深く振り返ってみましょう。
里見公園の過去と国府台城の築城

里見公園内にある明戸古墳は、6世紀後半頃の前方後円墳です。
室町時代、当地に太田道灌が仮陣を敷いた後、道灌の弟(あるいは甥)とされる太田資忠が国府台城を築いたと伝わっています。
後円墳に安置されている石棺は、築城の際に地表に現れたものとされています。
中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。其頃櫃中より甲冑・太刀の類、および金銀の鈴・陣太鼓、其餘土偶人等を得たりとて、今其一二を存して、總寧寺に収藏せり。
(『江戸名所図会』巻七 國府臺古戰場より)
『江戸名所図会』の後半が刊行されたのは1836年(天保7)であり、この時点で「中古(大昔)」と書かれていることから、国府台城の築城時に石棺が発見されたという伝承もあながち誤りではないのかもしれません。

また、国府台城の築城については、以下のような古文書の記述も残されています。
此時令退治自胤を取立テ両総州ノ侍過半自胤ヘ付テ千葉一跡ニ令相続カタメニ両上杉ヨリ加㔟アリテ成氏ヘ此ヨシ得内意ヲテ太田道灌下総国府臺ニ陣取カリ陣屋ヲカマヘケリ
(『鎌倉大草紙』より)
享徳の乱(1455年〜1483年)の一場面です。
両上杉家(山内・扇谷)と古河公方・足利成氏の和議が成り、残る敵となった長尾景春や、臼井城の千葉孝胤に対抗するため、千葉自胤を千葉氏の当主として担ぎ上げ、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が境根原合戦で千葉孝胤を攻略しました。
太田道灌が境根原合戦の直前に築いた陣屋が、国府台城の前身ではないかと云われています。

公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代より後の時代に属する、とする推測もある。
(現地案内板より)
先に”道灌の弟(或いは甥)の太田資忠が国府台城を築いたと伝わる。”と書いたが出典はわからない。
はじめに「道灌の弟(あるいは甥)の太田資忠が築城した」と書きましたが、その明確な出典は分かっていません。城を紹介するサイト等で決まってこのように書かれているためそれに準じましたが、現地の案内板にはそこまでの詳細な記述は見当たりませんでした。
国府台合戦について

心霊スポットの噂が囁かれる根拠の一つに、「国府台合戦」の存在があります。国府台合戦は、戦国時代に国府台城を巡って起きた戦いで、歴史上二度行われました。
第一次国府台合戦

1538年(天文7)、小弓公方・足利義明(真里谷信応、里見義堯ら)と後北条氏の間で争われました。
結果は後北条方の勝利に終わり、足利義明は戦死。
これにより後北条氏が下総国へ進出する一方、戦いに消極的だった里見義堯は勢力を保ったまま上総国での地位を確立していくことになります。
第二次国府台合戦

1564年(永禄7)、再び里見氏と後北条氏の間で激しい争いが起きました。
又、永祿七年には、太田新六郎康資兄弟の輩、小田原に背き、同苗美濃守資正入道山樂齋、及び里見安房守義弘等と此地に屯しければ、小田原より討手として、遠山丹波守・同隼人佐をむかはしむ。
故に太田兄弟相圖相違して、武州岩附へ落ち行きけり。
然るに北條氏康父子、小田原より馳せ向ひ、同年正月七日・八日大に戰ふ。
依て義弘山樂の輩、終に敗走す。(『江戸名所図会』巻七 國府臺古戰場より)
後北条氏の家臣だった太田康資は、同族の太田資正の誘いに乗って上杉謙信の傘下に入り、謙信は彼らを守るため房総半島の里見氏に援軍を要請しました。
国府台城に布陣した里見義弘は、後北条方の富永直勝・遠山綱景を打ち破って緒戦の勝利を飾りますが、後から駆け付けた北条氏康・氏政父子の本隊に敗北し、撤退を余儀なくされました。
この戦いによって里見氏は安房国へと追い込まれ、非常に苦しい情勢に立たされることとなりました。公園内にある石碑は、この第二次国府台合戦にまつわるものです。
この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死する者五千名とつたえております。
その後里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政十二年(一八二九)に至って里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。
(里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑案内板より)
夜泣き石の伝承

3つの石碑の傍らには、「夜泣き石」と呼ばれる小さな石が安置されています。
これは、第二次国府台合戦で戦死したと伝わる里見広次(弘次)に関係しています。
里見広次の娘が父を弔うため、安房の国から遠路はるばるこの地へ赴きました。しかし、幼かった娘は凄惨な戦場跡を目の当たりにして大きなショックを受け、石に寄り添って泣き続け、やがて力尽きて亡くなってしまったといいます。
それからというもの、この石の付近からシクシクと泣き声が聞こえるようになったと伝えられています。後年、一人の武士が娘を憐れんで供養してからは、泣き声は止んだそうです。
城跡から安国山総寧寺、そして明治以降へ

1663年(寛文3)、徳川4代将軍・家綱の時代に、安国山総寧寺が関宿内町(現在の千葉県野田市)から国府台城跡へと移転してきました。
安国山総寧寺はもともと近江国(滋賀県)にあった由緒正しき寺院です。1383年(永徳3)に近江国の佐々木氏が通幻禅師を招聘して建立したのが始まりと伝わり、紆余曲折を経て当地に鎮座することになりました。
江戸時代の国府台一帯は、田畑が広がるのどかな農村だったそうです。

明治時代以降、国府台は日本陸軍に注目され、軍事拠点として利用されることになります。現在の里見公園がある場所には陸軍の病院が建てられ、これが現在の国立国際医療研究センター国府台病院の前身となりました。
また、1922年(大正11)から1933年(昭和8)の間には、「里見八景園」という大規模な遊園地も存在していました。里見公園の北側部分に残る滝や池は、その当時の名残だといわれています。
太平洋戦争時には軍用地柄多くの防空壕が掘られましたが、戦後に埋め立てられ、1958年(昭和33)に現在の里見公園として整備されて現在に至っています。
里見公園と過去の事件

ネットで「里見公園 事件」と検索すると、過去に公園内で女性が殺害された事件があったという情報に行き当たります。
最初は詳細が記されていないため噂の類かと思っていましたが、過去の新聞を調べると確かな記録が残されていました。
- 1958年(昭和33)7月7日(読売新聞夕刊)
午前5時45分頃、里見公園内の旧防空壕北側斜面で、17、8歳の女性がベルトで首を絞められた状態で発見されました。暴行の跡はなかったものの、上着がなく、腕時計などの所持品が奪われていました。
- 1963年(昭和38)4月2日(読売新聞朝刊)
4月1日午後8時30分頃、里見公園入口の市道で2人の男性が心臓付近を刃物で刺されて死亡しているのが発見され、殺人事件として捜査が開始されました。
- 1994年(平成6)7月21日(朝日新聞朝刊)
20日午後3時55分頃、里見公園下の江戸川にて、コンクリートが詰められたドラム缶が発見されました。内部を破砕したところ、白骨化した人間の頭部が見つかっています。
このように、里見公園およびその周辺では、歴史的な激戦地としての背景に加え、実際に凄惨な事件が起きていたという事実があります。
こうした重層的な歴史や暗い過去を知ると、心霊スポットの噂が流れてしまう背景にも納得がいくような気がします。
終わりに

水上勉の推理小説『巣の絵』でも、里見公園が殺人事件の舞台として描かれています。
詳しく調査する前は「小説のイメージが心霊スポットの噂の原因になったのだろう」と考えていましたが、まさか実際に数々の事件が起きた現場であったとは思いも寄りませんでした。
そこに戦国時代の古戦場跡という歴史が重なっているため、心霊スポットとしての根拠や不気味さは十分すぎるほど揃っています。全国数ある心霊スポットの中でも、歴史的・背景的な意味で非常に印象に残る場所だと言えるでしょう。






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