多鯰ヶ池とお種伝説。ここが心霊スポットと噂されているのは何故なのか?

多鯰ヶ池

鳥取砂丘のすぐ近くにある多鯰ヶ池(たねがいけ)。

この池のほとりには七福神の紅一点・弁財天が祀られている。水の神様として知られる弁財天は古来より湖や川など水に関わる場所で信仰されてきた。日本では弁財天の化身が蛇や龍とされているため、蛇や龍の伝説が語り継がれていることが多い。

多鯰ヶ池も例に漏れずそのような伝説が残っている。それが表題の『お種伝説』である。

それでは多鯰ヶ池の伝説について紹介しよう。またここは心霊スポットとしても知られているようなので、それについても触れていこうと思う。

 

多鯰ヶ池の場所

多鯰ヶ池

最寄りの高速出口は鳥取IC。

鳥取ICから下りて突き当りの『鳥取IC入口』を左折、鳥取南バイパスを進み南隅の信号を右折し国道9号線(鳥取バイパス)に入る。少し走ると鳥取砂丘の案内板があるので、案内に従ってバイパス出口に進み、その後左折する。道なりに進んだ先の『鳥取砂丘入口』の信号の右側に多鯰ヶ池とお種弁天の駐車場がある。

周辺の駅や空港から鳥取砂丘行きのバスが出ているようなので自家用車以外でも行けない事もない。

 

 

お種伝説について

多鯰ヶ池

昔、国府町に裕福な長者が住んでおり、そこにはたくさんの使用人が働いていました。この長者の家にあるとき、福部村の細川から『お種』という美しい女の人が雇い入れられました。

この長者の家では、夕方になると、仕事を済ませた大勢の使用人が、三人四人と集まって世間話をするのが通例でした。ところが、誰かが『腹がへった』『何かうまいものが食いてえなぁ』と言うと、きまってお種が甘い柿の実をたくさん取って来るのでした。

初めは誰も不思議に思わなかったのですが、度重なると、中には疑いだす者もおり、あるとき若者がお種のあとを追ってみました。

すると、お種は、多鯰ヶ池に着くなり、着物を脱いで蛇体となり、池の中程の小島までスル、スルッと泳ぎ、そこにあった柿の木によじ登って柿の実を取ろうとしていました。これを見た若者は、びっくり仰天震えながら走って逃げ帰り、そのありさまを一部始終長者に報告しました。

一方、自分の素性を知られてしまったお種は、その夜限りで長者の家には帰らず、そのまま多鯰ヶ池の主になってしまいました。

長年、長者の家に住んでいた老婆は、このことを聞いてお種を大層憐れみ、池のそばに荒神さんの祠(現在のお種の社)を建てて祀ってやりました。そして、毎年村の子どもたちを連れて、一斗五升の小餅を木の葉の一枚一枚に載せて、池の中に流してやり、供養をしてあげました。

お種伝説 案内板より

以上がお種伝説についてである。

元々、弁財天が祀られていてお種伝説が後から付け加えられたのか、はたまたお種伝説が先でお種を弁財天として祀ったのか?

いちのまる
いちのまる

前者だと思うけど、どうだろ?

 

人柱の伝説か?

多鯰ヶ池

引用文中にある、

『美しい娘』『食べ物(がない)』『帰らず』『憐れみ』『供養』

これらのキーワードから『人柱』を連想した。

考え過ぎだろうか?

写真の島がお種が柿を取って来たと伝わる小島。

小さな鳥居のようなものが建っている。

因みに多鯰ヶ池の名の由来はお種から来ているそうだ。

 

お種社の参拝方法

多鯰ヶ池

お種社には独特な参拝方法がある。

・時計回りに社をぐるっと3周します。
・その際、1回周るごとに同じ願い事をします。
・そうしたら願い事が叶うかも!

ご利益は弁財天だから御利益は『学問』『音楽』『金運』といったところだろうか。

 

心霊スポットとしての多鯰ヶ池

多鯰ヶ池

結論から言うと心霊スポットとして扱われる理由は分からなかった。

心霊スポットを扱っている幾つかのサイトで多鯰ヶ池について拝見すると下記のように書かれていることが多い。

・水葬があった。
・軍隊が訓練中に集団で溺死した。

 

水葬について

大昔ならまだしも近代に水葬はないと思う。海が近くにあるのにわざわざこんな小さな池に水葬するとは考えにくい。

多鯰ヶ池の周辺には多くの古墳がある。この辺りに殉葬の文化があったとするならば、それが心霊スポットになった所以と考えられないこともないが…、そこまで深い話ではない様な気がする。

 

軍隊の訓練中の集団溺死について

鳥取地方には明治時代後期に歩兵第40連隊が設置された。鳥取の部隊は『健脚部隊』と呼ばれ足腰の強い兵隊が多くいたと云う。その理由は足場の悪い鳥取砂丘で軍事訓練をしていたためであった。

多鯰ヶ池で訓練が行われた可能性は十分に考えられる。ただ兵隊の集団で溺死ってあり得るだろうか?一人や二人事故で溺れてしまったくらいなら理解出来るけれど…。もし、集団溺死が起きていれば、どこかしらに記録が残っていてもっと有名な話になっていたと思う。

因みに歩兵第40連隊は戦争が激化すると鳥取を離れて各地を転戦している。

ここから出陣して中国で、ビルマで、インドで、また南海の諸島で、硝煙下に散った本県人は一万を超える。

昭和54年(1979)3月 とっとり市報より

とのこと…。合掌。

 

終わりに

多鯰ヶ池

多鯰ヶ池の周辺に多くの古墳があることから古来より神聖な場所として扱われてきたのだろう。

基本的に聖域には部外者を近づけない。

排他的な傾向が時を重ねるにつれ『あそこは曰くつきのヤバい場所だから!』と変わっていき心霊スポットになってしまう場合もあるのかな?と思った次第である。

コメント

  1. 上総 より:

    >お種は、多鯰ヶ池に着くなり、着物を脱いで
    と読み進めて、期待値がMAXに。
    脱いだら、凄いんですって展開に、・・・
    >蛇体となり
    蛇になっちゃったのね。期待がため息に代わりました。嗚呼~。

    鳥取ってそもそも人が少なくって、寂しいトコというイメージです。

    • いちのまる より:

      上総さん

      >期待値がMAXに。
      思春期ですから仕様がないですね。むしろ健全です(笑)

      鳥取砂丘の記事も書きますが、そこにはたくさんの人がいましたよ。
      でも日本人以外の人が多かった気がします。

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