常紋トンネルとタコ部屋…。誘拐監禁され強制労働させられた人々たち

1970年(昭和45)9月10日朝。

常紋トンネルの内壁から白骨化した遺体が発見された。

しゃれこうべの後頭部には布切れが付着しており、その下には深い傷跡があったと云う。

いちのまる
いちのまる

人柱…?

頭蓋骨まで損傷する痕って…。

ここで何があったのでしょうか?

常紋トンネルについて

常紋トンネルは1912年(大正元年)に工事が始まり、1914年(大正3)に竣工された全長507mの鉄道トンネルである。

呂郡(現・北見市留辺蘂町)と別郡の境にある常紋峠が名前の由来だ。

当時、北海道では石炭や木材の輸送を効率化するため鉄道、道路、湾港などの普請が盛んに行われていた。その背景には政治家や資本家らの利権争いがあったと云う。

当然ながら現場を受け持ったのは孫請けや曾孫請けの団体である。

末端業者に下りてくる工事費はピンハネされ雀の涙ほどしか無かった。

それでも工事は進めなければならない。

さて、どうしたものか?

 

タコ部屋について

末端業者は募集という名の誘拐で人夫を集めタコ部屋に送った。

周旋屋は人口の多い都心部で暗躍し、甘言を用いて困窮者を誘い監禁する。

女と酒を与え強制的に借金を作らせ逃げられなくする方法も取られた。

罠に嵌った哀れな人々は数人の監視者を付けられ現地へ輸送される。

そして、地獄の日常が始まるのだ。

『タコ』の語源には様々な説がある。

誘拐または脅迫されて連れこまれた内地のタコ(他雇とも書く)と、わずかな前借金をもらった道内のタコ(地雇ともいう)は、逃亡できぬようにつくられた飯場に収容され、棒頭と呼ばれた幹部に監視された。

小池喜孝 著『常紋トンネル』より

長年の労働で肩にタコができた熟練土工が、その技術と労働を売ることを『タコを売る』と言い、このことから『タコ』という名がおこったという説もある。

小池喜孝 著『常紋トンネル』より

他にも、

監禁部屋に入ると抜け出せず、蛸(タコ)が自身の足を食べるように、自分の身体を売って生きるしかないから。
労働者が多く、その足が蛸(タコ)の10本足のように見えるから。
労働者が凧(タコ)の糸が切れたかのように逃げ出すから。

などがある。

タコの生活は悲惨極まりなかった。

朝、明るくなる前にたたき起こされ、日没まで強制的に労働を強いられる。許可なく休めば暴力で咎められた。

食事は貧相で栄養不足や脚気でバタバタと労働者が倒れて行った。

自由時間などなく夜間は施錠され棒頭と呼ばれる幹部に監視され、隙を付いて逃げ出しても殆どが捕まり、見せしめに拷問されたりリンチにあったと云う。

運よく逃げ出せても道がわからず道中でヒグマに襲われ亡くなった。

怪我や病気で瀕死状態になった人間を生き埋めにしたという話も残っている。

タコ部屋は常紋トンネルに限らず北海道や樺太の各地に乱立した。そして多くの殉職者を出し黙々と工事が進められた。

 

常紋トンネルとタコ部屋

常紋トンネルの周辺には4~5のタコ部屋があったと云う。

工事では百数十人の労働者たちが犠牲となった。

1959年(昭和34)には周辺で49体の遺体が発掘され、冒頭でも紹介したが、1970年(昭和45)にはトンネルの内壁から白骨化した遺体が見つかっている。

常紋信号場が開驛してから誰れ云うとなく『火の玉が出る』『信号が消える』などの噂もでたり常紋に居住している歴代の職員家族に病人が多く出るのも怨霊のためではないかといわれていた

歓和地蔵尊建立の由来より

常紋トンネルの建設で犠牲になった魂を供養するため歓和地蔵尊は建立された。

『人間が創り出した負の遺産を決して忘れてはならない。』という思いも込められているのだろう。

 

終わりに

今回は、小池喜孝氏の『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』を参考に執筆した。

小池氏は各方面から情報を集め、タコ部屋の体験者やタコの目撃者などを取材し書を残した。

より詳しくタコ部屋や常紋トンネルを知りたい方は是非読んでいただきたい。

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