兵庫県三木市の三木城跡に訪れた。
戦国時代、羽柴秀吉は三木城を兵糧攻めにて攻略した。
余りに凄惨な戦いだったため三木の干殺しと名付けられ、現在まで語り継がれている。
故に曰く付きの場所、所謂心霊スポットとして紹介されることもある。
では、三木城の歴史を詳しく見て行こう。
三木城の歴史
現地の案内板に次のように書かれている。
三木城は、室町時代の十五世紀後半に別所則治によって築かれ、以後別所氏の居城となりました。
三木城 案内板より
別所氏は播磨国の赤松氏の庶流と伝わる。
則治の孫・別所就治の代になると赤松氏から独立し、山陰地方の尼子氏や畿内の三好氏、摂津の有馬氏などと覇権を争った。
就治の跡を継いだ別所安治は織田信長が上洛して来ると、それに従い畿内の三好氏と戦った。
そして安治の嫡男・長治の代に別所氏存亡の危機が訪れる。
三木の干殺しとは
1577年(天正5年)から織田信長は中国地方の攻略を開始した。これを中国攻め、或いは中国征伐と言う。
信長から中国攻めの命を受け播磨国に入った羽柴秀吉は、黒田孝高(官兵衛)の居城を本拠として転戦に明け暮れている。
序盤は順調に攻略していた秀吉だったが、三木城の別所長治、有岡城の荒木村重が信長に反旗を翻したため絶体絶命の窮地に追い込まれてしまう。
別所長治の離反
別所長治の父・安治は織田信長に恭順の意を示していたが、長治は何故裏切ってしまったのだろうか。
謀反の主な理由は、
・上月城攻めのやり方が気に入らなかった(織田軍は降伏した赤松氏を許さず虐殺している)
などあり、他にも様々な要因が重なって織田氏に従うのは危険という考えに至ったのだと思われる。
家中でも恭順派と反逆派が分かれていたようで、長治の叔父・別所重宗は謀反に反対して浪人になり、秀吉に従っている。
秀吉による三木城兵糧攻め
1578年(天正6年3月29日)から三木合戦が始まる。
秀吉は三木城を包囲し兵糧攻めを行いながら支城の攻略も狙った。
敵方の野口城、神吉城、志方城を攻め落とし三木城の周囲に付城を築き更に強固な包囲陣を敷いている。
ところが同年の10月、有岡城の荒木村重が謀反したため、支城を落として潰した輸送ルートが開放されてしまった。
窮地に立たされた秀吉だったが、有岡城の戦いで荒木村重が撤退したため、再び三木城の攻略が始まる。
三木城の落城
1580年(天正8年1月)、約1年8ヶ月続いた秀吉の兵糧攻めが終わりを迎える。
1月6日、羽柴秀吉は別所友之(長治の弟)が守る宮之上を占領。
1月11日、宮之上から別所吉親(長治の叔父)が籠る鷹の尾を見下ろし軍勢を寄せる。
退いた別所吉親を確認した秀吉は三木城本丸に総攻撃を開始。
1月15日、秀吉の与力になった別所重宗が城の者を呼び出し別所長治、吉親、友之の三名へ書状を届けさせる。
『摂津の荒木、丹波の波多野のような果て方をしたら末代までの恥になる。このうえは腹を切るしかない。』
これに対し長治らは『自分たちは腹を切るので、城内の者たちの命は助けてほしい。』と返答。
秀吉は返答に大変喜び城内に酒樽を2~3樽送り届けている。
長治は妻や家臣らを集め17日に切腹すると伝言を残し、最後の酒盛りを饗する。
叔父の別所吉親は首を辱められることを恐れ、家に火を放ち焼身しようとするが、部下たちに制止され殺害されている。
長治、友之兄弟は切腹の前に家臣たちを呼び出しこう言った。
此度之籠城兵粮事尽て牛馬を食し虎口を堅籠城相届志前代未聞之働芳恩不申足併我等相果諸士を相助身之悦不可過之とて
信長公記 播州三木落居之事より引用
辞世の句
『いまはただうらみもなしや諸人の命にかはる我が身と思へば』
別所長治の辞世の句です。
三木城の最後
三木城落城後、羽柴秀吉は姫路城を居城とし三木城に杉原氏、中川氏などを城代とした。
江戸時代に入り池田輝政が播磨国の大名になると重臣の伊木忠次が三木城に入城している。
1615年(元和元年)、幕府が発布した一国一城令により三木城は廃城となった。
終わりに
別所氏は長治の叔父・重宗が早い段階で織田信長に従ったため断絶することなく続いた。
江戸時代には、徳川幕府の旗本として存続したそうだ。
兵糧攻めは比較的被害が少ない作戦である。何故なら攻城側は殆ど損害を受けないからだ。
しかし、兵糧攻めの受けた側の城内は悲惨極まりない。家畜から始まり草木、虫を食す。最悪、カニバリズムが発生する。
三木の干殺しの一年後、鳥取城で更に残酷な兵糧攻めが行われた。鳥取の飢え殺しである。
これについては以下の記事を参考にして欲しい。
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