鳥取の飢え殺しとは?鳥取城が心霊スポットと噂される理由について

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鳥取城

鳥取城は因幡国の守護・山名氏が久松山に築いた山城です。

あなたは鳥取城の飢え殺し(かつえごろし)をご存知でしょうか?

この城は曰くつきの場所、いわゆる心霊スポットとして知られています。

飢え殺し…。鳥取城の歴史をご存知ない方でも、字面で何となく事の顛末が想像出来ますね。

その歴史を振り返ってみましょう。

この記事は心霊スポットに関する内容を扱っています。また少々残酷な描写がありますので、苦手な方はここでお戻りください。

 

鳥取城の場所

鳥取城

鳥取県の中心地にありますので、アクセスの説明はいらないかな。

自動車で行くなら『お堀端駐車場』が便利です。(駐車出来ない時間があるかも)

 

飢え殺しに至るまでの経緯

鳥取城

1577年(天正5年)、羽柴秀吉は織田信長の命を受け中国攻めを開始しました。

最初は順調に事を進めましたが、荒木村重や別所長治らの裏切りで、秀吉は一時的に追い詰められています。

どうにか困難を退け播磨国、但馬国を攻略。

続いて因幡国の攻略(鳥取東部)に乗り出します。

 

第一次鳥取城攻めについて

鳥取城

1580年(天正8年6月)、秀吉による第一次鳥取城攻めが始まります。

手始めに周辺の若桜鬼ヶ城や鹿野城を攻め落とし、鳥取城に籠城する山名豊国に『降伏すれば因幡国をあげるよ!』呼び掛け懐柔します。

同年9月、山名豊国は反対する家臣の意見を抑え降伏。

3ヶ月間の籠城戦はこうして幕を閉じました。

降伏の遅さを咎められた山名豊国は法美と邑美の二郡しか与えられませんでした。

 

吉川経家、鳥取城主に

鳥取城

織田方に降伏した山名豊国は家臣らの圧力に押され鳥取城から追い出されてしまいます。

元家臣たちは毛利家の吉川元春に助けを乞い、それに応じた元春は石見吉川氏当主の吉川経安の嫡男・吉川経家を鳥取城主に任じました。

吉川一門で文武両道で通っていた経家の入城に旧山名家臣たちは安堵したことでしょう。

 

第二次鳥取城攻めについて

鳥取城

羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻めを見越し、城周辺の兵糧を買い占めました。

一方、鳥取城に入った吉川経家は城内を隈なく巡察し、鳥取城の北西にある丘陵に丸山城を築城した後、優秀な家臣を配置、秀吉を迎え撃つ準備を整えます。

 

鳥取城包囲作戦と太閤ヶ平

鳥取城

1581年(天正9年6月)、秀吉は2万の大軍を率いて姫路を出発。第二次鳥取城攻めが始まります。

同年7月に鳥取城を包囲作戦を展開し、自身は帝釈山の山頂に巨大な陣を構えました。

帝釈山の陣を太閤ヶ平陣といいます。現在も史跡として残っています。

 

鳥取城

秀吉は軍を三軍に分け鳥取城を包囲しました。

じわりじわりと時間をかけ鳥取城内の兵糧が尽きるのを待ちます。

攻め手の兵糧の買い占め作戦が成功して、戦序盤から籠城兵は兵糧に苦しみました。

一部の城兵が高値の付いた兵糧を何も考えずに売ってしまったことが原因だと云われています。

また秀吉は城下の農民たちを城内に追いやり兵糧切れを加速させました。

吉川経家は秀吉の兵糧攻めを予期していましたので、河口付近に出城を築き、海上での戦いに備えていました。

天下に名の知れた毛利水軍なら補給線を死守してくれるだろうと読んだのでしょう。

武器や兵糧さえ届けば、しばらくの間落城しなかったはずです。

ところが毛利水軍は惨敗し、頼みの海上・河川ルートが閉ざされてしまいます。

 

阿鼻叫喚、地獄絵図…。

鳥取城

底尽きる兵糧。

今度因幡國とつ鳥一郡之男女悉城中へ逃入楯籠候下々百姓以下長陣之無覺悟候之間即時に及餓死初之程者五日に一度三日に一度鐘をつき鐘次第雑兵悉柵際迄罷出木草之葉を取中にも稻かぶを上々の食物とし後には是も事候盡て牛馬をくらい霜露にうたれ弱者餓死無際嫌限餓鬼の如く痩衰へたる男女柵際へ寄もだえ焦引出扶候へとさけび叫喚の悲しみ哀成有様目も當られす鐵砲打倒候へは片息したる其者を人集刀物を手々に持て續節を離ち實取候き身之内にても取分頭能あぢはい有と相見へて頸をこなたかなたへ奪取逃候き兎に角に命程强面物なし(後略)

信長公記 因幡国取鳥果口之事より

今度、因幡国鳥取一郡の男女悉く城中に逃げ入り立て籠もる。下々百姓以下、長陣の覚悟もなく即時に餓死に及ぶ。
初めのほどは五日に一度、三日に一度、鐘をつき、鐘が鳴り次第雑兵が悉く柵際まで罷り出て木草の葉を取り、中にも稲株を上々食物とし、後にはこれも尽きて牛馬をくらい霜露にうたれ弱者は餓死すること際限なし。
餓鬼の如く痩せ衰えた男女は柵際に寄りもだえ焦れ、ここから出して助けて、とさけび、叫喚の悲しみは目も当てられない有様。
それを鉄砲で打ち倒せば、片息している其の者(瀕死の人)を、人々が集まり刀物を手にもって節を離し実を取る。身体の中でも頭は取分け味わい(健康にいい的な?)があると見えて、首をあちらこちらで奪い合い逃げるさま。
とにかく助かろうとする者ほど強硬なものはない。

 

鳥取城

十月廿五日

取鳥籠城之者扶被出餘に不便に被存知食物與へられ候へは食にゑひ過半頓死誠餓鬼之如く痩衰へて中々哀成有様也(後略)

信長公記 因幡国取鳥果口之事より

10月25日
鳥取籠城の者が助け出される。余りに具合が悪いので食物を与えたら、食に酔い過半が突然死んでしまった。まことに餓鬼のように痩せ衰えてなかなか哀れな有様だった。

極限に追い込まれた人間はこうなるのですね…。

極度の飢餓状態からいきなり栄養補給を行うとリフィ-デイング症候群が起きて死亡する可能性があるそうです。

飢餓や戦死以外にも惨状を目の当たりにし、ショックで自ら命を絶った人もいたかもしれません。

 

吉川経家の降伏

鳥取城

最早これまでと悟った吉川経家は自らの命と引き換えに城内の人々の助命を願い出ます。

この申し出が秀吉から織田信長に伝えられ降伏が認められます。

こうして吉川経家と城内の有力武将は切腹し、鳥取城は開城されました。

 

終わりに

鳥取城

飢え殺しで多くの人々が無念の内に亡くなったため心霊スポットになりました。

鳥取城攻めが取り分けて悲惨だったことは認めますが、戦国時代に限らず歴史を振り返れば至る所で血みどろの戦いが行われてきました。

多くの人間が亡くなった場所が心霊スポットなら、古戦場や殆どの大都市は心霊スポットということになってしまいますね。

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