謎の古代山城・鬼ノ城へ!築城の経緯と温羅伝説について

鬼ノ城

戊戌 賊將至於州柔 繞其王城 大唐軍將率戰船一百七十艘 陣烈於白村江
戊申 日本舩師初至者與大唐舩師合戰 日本不利而退 大唐堅陣而守
己酉 日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰 我等爭先彼應自退 更率日本亂俉中軍之卒 進打大唐堅陣之軍 大唐便自左右夾舩繞戰 須臾之除官軍敗績 赴水溺死者衆 艫舳不得 旋 朴市田來津仰天而誓 切齒而嗔殺數十人於焉戰死 是時百濟王豐璋與數人乘舩逃去高麗

日本書紀 日本書紀巻第二十七 天命開別天皇(天智天皇)より

8月17日、新羅の将が州柔に到着し城を囲む。唐軍の将は170の舟を率い白村江に陣を敷いた。
8月27日、日本の水軍と唐の水軍が戦い、日本軍は不利になり退却し、唐軍は守備を固めた。
8月28日、日本の諸将と百済の王は気象を考えず共に語って『我らが先に争えば、敵は退却する』と言った。
日本軍は乱れた兵を率いて進み、唐軍の堅陣を攻撃。
唐軍が左右から日本軍を挟み攻撃すると、たちまちに日本軍は敗北した。
水中に落ちて溺死する者が多く、船の旋回も自由に出来ない。
朴市田来津は天を仰ぎ誓い、歯を食いしばって数十人殺したが戦死した。
このとき、百済王・豊璋は数人と船に乗り高麗へ逃げ去る。
663年(天智2)に朝鮮半島の錦江河口付近で行われた『日本・百済連合軍』と『唐・新羅連合軍』の白村江の戦いの様子である。
この時点で百済は滅亡しているので、百済復興軍と言った方がよいかもしれない。
また、日本書紀には日本の国号が記されているが、当時は自国を『やまと』と称し、外国からは『倭』と呼ばれていたと云う。

 

鬼ノ城

白村江の戦いの後、日本は唐からの侵攻に怯えることになる。

そこで天智天皇は遣唐使を派遣し友好関係の修復を図るとともに、西日本各地に城を築き防御を固めた。

是歲 於對馬嶋 壹岐嶋 筑紫國等置防與烽 又於筑紫築大堤貯水 名曰水城

(中略)

秋八月 遣達率答㶱春初 築城於長門國 遣達率憶禮福留 達率四比福夫 於筑紫国築大野及椽二城

(中略)

是月 築倭國髙安城 讚吉國山田郡屋嶋城 對馬國金田城。

日本書紀 日本書紀巻第二十七 天命開別天皇(天智天皇)より

この年、対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人や烽火台を配置した。
また、筑紫に大きな堤を築き水を貯めた。名を水城と呼ぶ。(中略)秋8月、達率(百済の官位)・答㶱春初を遣わして長門国に城を築かせる。
憶禮福留、四比福夫を遣わし筑紫国に大野城、及び基肄城を築かせた。

(中略)

この月、大和国に高安城、讃岐国山田郡に屋島城、対馬国に金田城を築いた。

 

鬼ノ城の歴史

鬼ノ城

鬼ノ城は岡山県総社市の鬼城山山頂部に築かれた山城である。

発掘調査で存在の証明はされているものの、史料上に名前がない謎の城として知られている。

遥か昔に築城された鬼ノ城だが、遺構が発見されてからそれ程年月は経っていない。

 

鬼ノ城

1971年(昭和46)、高橋護氏が遺構を発見し神籠石系山城と発表され、1978年(昭和53)に鬼ノ城学術調査委員会の調査で古代山城と確認された。

恐らくは冒頭で紹介した白村江の戦い後の防御策の一環で築城されたと考えられている。

今後の研究で鬼ノ城の変遷が解明されてゆくだろう。

 

鬼ノ城と温羅伝説

鬼ノ城にある『温羅舊跡』の碑。

温羅(おんら/うら)は伝説上の人物、鬼人であり、鬼ノ城を拠点とし吉備国に厄災をもたらしたと伝わる。

ヤマト王権から五十狭芹彦命(吉備津彦命)が派遣され温羅は討伐された。

五十狭芹彦命は矢を射て温羅を退治しようとするが、温羅は人間離れした腕力を石を投げ矢を撃ち落とした。
2発同時に矢を放てばどうかと強弓で攻撃すると、一本は撃ち落とされ、二本目が温羅の左目に突き刺さった。
驚いた温羅は雉になって逃走。鷹になって追撃する五十狭芹彦命。
捕縛されそうになった温羅は左目を射られたときに出た血の川に鯉に化けて逃げ込むが、鵜に変身した五十狭芹彦命に捕らえられ、命を落とした。

二人が放った矢と石が落ちた場所に矢喰神社、温羅の血で出来た川を血吸川、温羅が捕まった場所は鯉喰神社として、現在までその伝承が残っている。

もし、温羅伝説が史実を掠めているなら、鬼ノ城は白村江の戦い以前から存在していることになるが、誰も知る由はない。

 

鬼ノ城

吉備津神社に温羅由来の儀式・鳴釜神事が伝わる。(写真は吉備津神社拝殿)

鳴釜神事は釜の鳴る音で祈願を卜する儀式だ。

五十狭芹彦命によって首を討たれた温羅。
晒された首はまだ死んでおらず、唸り声を発し続けた。
犬に喰わせても、地中深くに埋葬しても、その声は止まなかった。
困り果てた五十狭芹彦命の夢枕に温羅が現れ、
『我が妻の阿曽媛に釜殿で神への供物を炊かせよ。そうすればお前たちに世の吉凶を示そう。幸あれば豊かに、不幸あれば荒々しく鳴こう。』
命はこれを行い、それからというものの唸り声は聞こえなくなったと云う。

これまで温羅を悪人として語ってきたが、反対に吉備国に製鉄技術をもたらし、吉備を繁栄させ民から親しまれた良主であったという話も見受けられた。

鳴釜神事は吉備の行く末を見守る温羅の心情を表しているように取れなくもない。

『昔話・桃太郎』は温羅と五十狭芹彦命の戦いが起源ではないかという説もある。

何れにせよ温羅伝説は古代日本の片鱗を覗かせる興味深い話である。

 

終わりに

鬼ノ城

さて、当ブログは心霊スポットの噂を調査し紹介する媒体である。

鬼ノ城にそのような噂があるとは思いもよらなかったのだが、幾つかのサイトで鬼ノ城が心霊スポットとして扱われていた。

しかし、その根拠は見当たらない。

私は城跡に心霊スポットの噂がある場合、合戦と人柱の有無を調べることにしている。

鬼ノ城が合戦で使用された形跡は現状発見されていないし、人柱の噂など皆無である。

温羅伝説に原因があるのかと思いきや、結末はきれいに収まっている。

近年中に何か起きたのかもしれないと、過去の新聞で事件や事故の有無を調べたが、該当記事は一件もなかった。(地元民にしか知り得ない出来事があった可能性は捨てきれないが…。)

本当にここは心霊スポットなのだろうか?

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