新潟県長岡市、浦瀬地区と比礼地区を結ぶ榎峠の道中にある比礼隧道。(榎隧道とも呼ばれる)
自動車のすれ違いが困難な狭い道だが、1988年(昭和63)に新榎トンネルが開通するまで、この道が国道だったらしい。
比礼隧道は東西の坑口で完成年と幅員の異なる稀有なトンネルである。
西坑門(浦瀬側)
完成年:1953年(昭和28)
幅員:3.6m
完成年:1958年(昭和33)
幅員:5m
このトンネルの総延長は、八十八・四メートルで、そのうち長岡市地内(旧山本村)が三十三・四メートル(巾員三・六メートル)で、すでにコンクリート巻立が二十八年に完成(旧荷頃村が施行したもの)しておりましたが、栃尾市地内は木の枠で作られたもので、大型自動車などの通行は困難をきわめていたもので、このほど延長五十五メートル(巾員五メートル)のりつぱなものができました。
昭和33年11月10日発行 広報とちお 比礼トンネル完成より
どうやら別の自治体が同時に施工していたためズレが生じたようだ。
左は1911年(明治44)測図、右は現在の地図である。
比礼隧道は1953年(昭和28)に完成したと上で紹介したが、この地図を見ると既に明治期にトンネルが存在していることがわかる。
乃ち廿九年秋を以って工を起す、比礼鉱場より浦瀬の鉱場を経て県道に連接す。其の間険を夷げ阻を廓き、隧を闢く四百二十尺。明年夏将に成を告げんとす、霖雨に会ひ、潤流漲溢し新道を決壌すること四千五百尺、八坑主益々奮ひ築具を修め役徒を増し、秋に至って竣功す、矢のごと直く砥のごとく平かなり、度るに万有五千尺と為す、捐貲六千円また大役なり。
佐々木一禄 著 石油の里 古志郡東山油利を興し新道を開くの碑より
現在の榎峠は草木の繁茂するひと気のない山あいで、油田施設が広がっていたとは想像もできないが、明治期から本格的に開始された原油の採掘にあたって関連施設が建ち並び多くの人々が集った。これを東山油田で呼ぶ。
榎峠の旧道はこのときに敷かれ、比礼隧道の前身はその際に穿たれたというわけである。
この地域には心霊スポットの噂が流れている。
おそらく、戦国時代に起きた諍いが関係しているのだろう。
越後の上杉氏に仕えていた高津谷城主の高津谷入庵は上杉謙信の死後に起きた御家騒動(御館の乱)で上杉景虎の味方をし上杉景勝と対立した。景勝の諸将は高津谷城を攻めたが、天然の要害に阻まれ攻めあぐねていた。
そこで景勝勢は周辺の水脈を探って城内の水を断つ計略を考える。間者を走らせたがなかなか水脈の発見には至らない。あるとき城山の東麓の村に住む老婆から『山続きの大澤という場所に清泉があり、そこから樋を通して場内に水を流している』という情報を聞き出す。実際に土中を掘り返すと樋があったため切断した。
たちまち城兵は口渇に苦しむ。
困窮を敵に悟られてはならないと、遠望から覗き見るであろう敵に対し、白米で馬を洗うふりをして城内の健在をアピールした。
当然長くは続かない。
高津谷入庵は本丸に火をかけ、従臣および妻子ともに血の峰谷に入り一斉に自害したと伝わる。
終わりに
高津谷城の北面にある血ノ峰城にも悲しい伝説が残されている。
南北朝時代の血ヶ峯趾にまつわる伝説は、伊予国(愛媛県)世田の戦いに敗れ、隠岐国にかくれ最期は不明となった新田家の重臣篠塚伊賀守の子主計(二十八歳)が興国二年(一三四一)に北朝方に攻められて城北に下り、一族三七○余名自刃して果て、溪流はそのため紅く染ったという。爾来集落民は、生害谷といい、この谷には大小数個の古塚があって、枯骨、刀剣、古鏡等が出土する。この史実は高津谷城の近くでの出来事であった。
佐々木一禄 著 石油の里 高津谷城の故事について
こういった類の伝説が残る地であるから、昔から『武士の幽霊が出る』などと言われていたのかもしれない。
いつしかその噂は比礼隧道だけにスポットライトが当たり、曰く付きの地として扱われるようになってしまったのではなかろうか。
本当に幽霊が出るか知らないが、なかなか興味深い心霊スポットではある。
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