絶壁に穿たれた鷹ノ巣トンネルと宮中取水ダムの慰霊碑について

鷹ノ巣トンネル

新潟県十日町市、宮中取水ダムの北西の断崖に穿たれた鷹ノ巣トンネル。

『中里村史 通史編』にトンネルについての記載があったので引用しよう。

貝野村では宮中の鷹の巣が名勝地の一つとして早くから知られている。国鉄信濃川発電所宮中ダムが建設されてからは、かつての絶景ぶりは見られなくなったが、以前は中魚沼郡の景勝地の一つとしてはかなり名の高い場所であった。『郡誌』には「山勢信濃川に逼りて、断崖壁立すること数十丈、断面所々に皴皺を生じ、矮樹之に生じ、藤蘿之に懸り、里道其の崖腹を通じ、紫雲霜葉の眺あり、大正五年隧道を鑿って通行に便にす。」と秋紅葉のころがとくに眺めがよいことを強調している。

中里村史 通史編 下巻 (近代・現代・民俗)445頁 第3章 大正と昭和の近代より

宮中取水ダムができるまでの鷹ノ巣は名勝地と知られていたらしい。

トンネルが掘られたのは1916年(大正5)とある。新潟県のホームページ【地域整備部のあゆみ】には1955年(昭和30)竣工と書かれているから、恐らくその時期に改修されたのだろう。

『たかのす』の表記は鷹ノ巣だったり鷹之巣、或いは鷹の巣だったりする。因みにトンネルの銘板は『鷹巣』であった。正式名称はどれだかわからない。

鷹ノ巣トンネル

坑内の壁面に窪み(↑の写真)があって、今は何もないけれど、かつては何かが飾られ(祀られ)ていたと云う。

上で引用した【中里村史 通史編】に『断面所々に皴皺を生じ、矮樹之に生じ、藤蘿之に懸り、里道其の崖腹を通じ、紫雲霜葉の眺あり』とあるようにトンネルが開通する以前から鷹ノ巣の断崖には道が通っていた。

交通の難所として知られ、戊辰戦争で官軍はここを通過できず、迂回して山を越えて進んだという記録が残っている。崖下の信濃川がしばしば氾濫して橋を流したため、こんな難所にわざわざ道を通したのだろう。

交通の難所には馬頭観音やら道祖神の石碑が安置されているのをよく見るので、この窪みにもそういう類いのものが置かれていたのかもしれない。

 

鷹ノ巣トンネル

このトンネルには幽霊が出ると噂されているようだ。しかし根拠ははっきりしていない。

鷹ノ巣トンネルと宮中取水ダムを合せて心霊スポットとして紹介するサイトを見かけた。これは宮中取水ダムの工事で殉職者が出たからだろうか?

ダムの近くに慰霊塔が建っている。碑文を写してきたので引用する。

信濃川ハ本邦第一ノ巨川タリ鐡道省夙に之カ本流ヲ引キ水力發電ノ計畫ヲ樹テラルルヤ我カ栗原組之カ取水ニ堰堤工事ノ施行請負ヲ命セラレ資ヲ投スル凡ソニ百萬圓星霜ヲ閲スル四タヒ此ノ間水災其ノ他ノ艱禍ニ遭フコト屢次今ヤ将ニ其ノ功竣ラムトス蓋シ本工事其ノ規模ノ宏大ニシテ且至難ナル東洋之ニ比スルモノ罕ナルヘシ但憾ムラタハ之カ従事者ノ中不幸ニシテ或ハ身ヲ激湍ニ淪メ或ハ脚ヲ崖壁ニ失シ命ヲ殞スモノ十有七人ヲ算ス今此ノ落成ノ壮觀ニ對シ殉職諸子ヲ痛悼スルノ情ニ勝ヘス乃チ有志胥謀リ茲ニ碑ヲ建テ氏名ヲ勒シ且來由ヲ誌シテ以テ厚ク祀リ永ク英靈ヲ慰ムト云爾

昭和十一年九月建立 殉職者慰靈之碑より

信濃川は日本で第一の大きな河川である。

鉄道省は以前から信濃川の本流を引く水力発電の計画をたてていた。

我ら栗原組がこれの取水に堰堤工事の施工請負を命じられ資金を投じる。

およそ100万円、長い歳月を経て4度、この間に水災・その他の困難に遭うことしばしば。今やまさに竣工しようとする。

まさしく本工事その規模は宏大にして、かつこれほどの難工事は東洋で比するものも稀であろう。

しかし残念に思うのは、従事者のうち不幸にも身を激しい流れに沈め、或いは足を崖壁から踏み外し命を失う者、17名を数える。

今、この落成の壮観に対して殉職者を哀悼するのは情にたえられず。

そこで有志が助け合いここに石碑を建て氏名を刻み、かつ由来を記して厚く祀り永く英霊を慰める。

いちのまる
いちのまる

無理矢理訳しましたが、こんな感じでしょうか?

 

終わりに

鷹ノ巣トンネル

トンネルの途中が抜けていて信濃川が見える。

今は木々で塞がれていてあまり景観は良くないが、トンネルが開けた当時は絶景が広がっていたのだろう。

本当に幽霊が出るか知ったこっちゃないけれども、肝試し感覚で夜に訪れるのは全くおすすめできない。この道はこれでも国道なのだが、トンネル付近はすれ違いができないほど狭く離合地点もほとんどない。もし事故を起こして転落しようものなら確実な死があなたを待っている。

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