かつてここには滝不動明王(通称・滝不動)と呼ばれる神域があった。
石の鳥居をくぐって急な階段を下りると、まずは赤い奉納幕のかかった地蔵堂がお出迎え。そこから道は左に折れ、石祠や狛犬を横目に通り過ぎると拝殿と滝が見える。滝の名前は末広滝。高さ12m程の分岐瀑で滝から不動明王像が睨みを利かせていた。滝には錆びた奉納刀もあった。
↑は過去の描写。いまは撤去されて現場にはほとんど何も残っていないようです。写真の通り立入禁止になっています。
上山市の歴史書に末広滝や不動尊についての歴史が記されていたので紹介しよう。
上山藩の儒学者・五十嵐于拙が残した言葉に『末広滝の不動尊の縁日を28日と決めておりますが、その日は多く雨が降りますので雨降りの不動と呼ぶ人がいました。ここに詣でる人が魚肉を持ち込んだり月の障りを憚らずに不動明王の戒めを賜ろうとするので、今日よりそれを注意する掟を垣根のそばに取り付けました(要約)』とある。
ちょっと訳に自信がないけれど、大体こんな意味のことが書かれていると思う。間違っている可能性が高いので、気になる方は原文を調べて確かめてほしい。
五十嵐于拙は江戸時代後期(明治元年没)を生きた人物なので『末広滝の不動尊=滝不動』であるならば、江戸時代には存在していたとわかる。
1891年(明治24)に末広滝の不動尊を信仰していた大津与惣治が愛宕山権現の廃堂を譲り受けて不動堂を建立した。
その際に花友と定昭という人物が和歌を献じている。
我が袖も露ぞこほるゝ秋の野の
小萩が花につらき月かせ
花友
1931年(昭和6)発行 岡村利蔵 編 上山年代略記より
ふたらくや遠き御山をうつし來て
そのいさほしをむすふ瀧水
定昭
1931年(昭和6)発行 岡村利蔵 編 上山年代略記より
山形県南村山郡金瓶村(現・上山市)出身の歌人・斎藤茂吉が滝不動について詠っている。
みづぐさの青々とせし巖よりおちたぎつ水にまなこをぞあらふ
1958年(昭和33)発行 鈴木啓蔵 著 茂吉と上山より
眼病に患った際、母に連れられて滝不動に願掛けし、滝のせせらぎで眼を洗ったという思い出が背景にある。1931年(昭和6)、茂吉50歳ごろの作品とのこと。
滝不動には心霊スポットの噂が流れていた。山形県にある心霊スポットのなかでも取り分け恐怖度が高く有名な場所だったらしい。
・古城の処刑場があった。奉納刀はその霊を弔うもの
・奉納刀で悪ふざけをしていた二人の子供が首のない姿で発見された
・草刈り中の母親が誤って子供の首を鎌で切ってしまった。母親は絶望のあまり石鳥居で首を括った
・霊能力者が手に負えず引き返してしまった
幾つかのオカルトサイトを読むとおおむね以上のようなことが書かれているが、裏付けとなる情報は全く記載されていない。
処刑場について
滝不動の南に位置する虚空蔵山には高楯城という中世城郭があった。この城に付随する刑場が滝不動の辺りに存在したということらしい。
高楯城は1400年代に築かれた城で、1535年に上山城が築城されるまで根城としての役割を果たしていた。高楯城に付随する刑場はあっただろうが、どこにあったのか証明することは不可能である。
奉納刀は刑死者の霊を弔うためのものと紹介するサイトを見かけたが、それはちょっと無理がある。ここに限らず鉄製の模造刀を不動明王に奉納する風習は他にもある。不動明王のご利益にあずかるため奉納するのだ。決して死者のためなんかではない。
二つの事件について
どちらも話が出来すぎている。断定はできないが、私は作り話だと思っている。
事件の不気味さだけが切り取られて仔細がはっきりしていない。せめて時期が提示されていれば図書館に行って過去の新聞を調べる気になるのだが……。
作り話の可能性が高い前提で、あの紙面の山を隈なく探すのは大変な苦行である。
霊能力者がビビッて引き返したことについて
しらんがな。ほんと、どうでもいい。
終わりに
恐怖度の高い有名な心霊スポットと聞いていたから『どんな負の歴史が隠されているのだろう?』と興味津々だったが、蓋を開けてびっくり。噂の根拠があまりに漠然としていてがっかりした。
黒木あるじ氏の山形怪談(竹書房出版)に滝不動を考察する章がある。大変興味深い内容なので、こういう話がお好きな方にはおすすめできる。
気になる方は↓のリンクへどうぞ。
滝不動はなくなってしまったが、一部は遷座され何処かで静かに祀られているのだろう。
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