佐和山城といえば石田三成。
石田三成は1590年くらいから1600年までここを居城にしていた戦国武将です。豊臣秀吉に目をかけられ出世まっしぐらだった彼ですが、関ケ原の戦いで徳川家康に敗北して処刑されました。
今回は三成の過ごした佐和山城がどんな場所か気になって訪れました。
それでは参りましょう!
佐和山城へのアクセス
彦根駅東口から出て左側を進みます。
左に曲がれる細めの道を左折。(県道彦根駅東口の信号まではいかない)道なりに進み高架下をくぐって小川の脇を直進すると佐和山城跡入口の龍潭寺に到着します。駅から徒歩で10~15分くらいです。
車なら県道518号線の船町東の信号を北に曲がりそのまま進むと案内板が出ています。狭い道が続くので非常にわかりづらいです。ナビかgooglemapで龍潭寺か佐和山城跡で検索してから向かうのが無難です。
城跡入口からは軽い登山が待っていますので、しっかり準備をしておきましょう。
佐和山城の起源
佐和山城は佐々木(佐保)時綱が佐和山に館を建てたことに始まります。
佐々木氏は宇多源氏の流れを汲む名家で近江国を本貫地としました。(出自については諸説あり)
時綱の父である佐々木定綱は鎌倉幕府を開いた源頼朝の側近で、多くの戦功をあげた優秀な武将として知られています。
佐々木氏四流派と浅井氏
佐々木氏は信綱(定綱の四男)の息子らの時代に内紛が起きて四分割され、それぞれ高島氏・大原氏・京極氏・六角氏と名乗るようになります。
湖南(琵琶湖南)を統治する六角氏と湖北(琵琶湖北)の京極氏は領境にあった佐和山城の攻防戦を繰り広げます。
戦国時代前期になると京極氏の家臣だった浅井氏が勢力を拡大し、浅井亮政(すけまさ)が京極氏を傀儡化させ六角氏と争います。次代の浅井久政は主家であった京極氏の反撃にあい、六角氏に従属。そして戦国の有名大名・浅井長政は半ば強引に久政を引きずり落とし六角氏から決別します。
織田信長と浅井長政
浅井長政は織田信長の妹・市を娶り同盟を結びますが、1570年の金ヶ崎の戦い(織田vs朝倉)の最中に織田を裏切ります。朝倉と浅井に挟撃された信長は木下(豊臣)秀吉、明智光秀らの活躍や近江豪族・朽木元綱の助けにより九死に一生を得ています。この朽木元綱は宇田源氏佐々木流の高島氏の庶家です。
ご存知の通り、このあと浅井氏は信長によって滅ぼされます。このとき佐和山城を守っていた磯野員昌(かずまさ)は浅井氏きっての猛将で織田軍を苦しめましたが、浅井氏の主城と分断され輸送や援軍の希望を絶たれ降伏しました。
織田時代の佐和山城
浅井氏滅亡後、佐和山城に入城したのは米五郎左こと丹羽長秀です。

お米のように地味であるが、なくてはならない五郎左。
丹羽長秀は織田家中で初めて国持大名になった人物です。織田家臣には燦然と輝く優秀な武将が多くいますが、長秀は柴田勝家と双璧といわれ、信長にとても信頼されていたとのこと。
彼は歴史的にあまり目立つ存在ではありませんが、信長配下のTOP3くらいの位置にいたようです。
本能寺の変以降
本能寺の変(1582年)で織田信長が横死したことで、今後の織田氏についての会議が開かれます。
この会議は清州会議と呼ばれ、後継者の決定と領地の配分が話し合われました。信長の二男(信雄)と三男(信孝)が後継者の地位を譲らなかったため『埒が明かない』と判断した宿老らが嫡孫・三法師を名代にしたとされています。
清須会議後、佐和山城には羽柴(豊臣)秀吉家臣の堀秀政が入ります。1585年、堀氏の転封に伴い堀尾吉晴が入城。そして1590年代に石田三成が19万4000石の大名として佐和山にやってきました。
石田三成について
石田三成は近江国坂田郡(滋賀県長浜市)の生まれで、羽柴(豊臣)秀吉が1574年に長浜城主となったころから秀吉の小姓として仕えています。次第に頭角を現し豊臣政権の五奉行の一人として行政を担当するようになりました。
出世街道を進む三成ですが、秀吉の子飼い武将たちと折り合いが悪く対立します。
1598年、慶長の役(朝鮮出兵)の途中で豊臣秀吉が死去。続いて豊臣政権の重鎮であった前田利家が翌年に亡くなると『七将による三成襲撃事件』が起きます。
七将とは加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の武闘派のこと。(徳川家康の書状には輝政、嘉明の代わりに蜂須賀家政、藤堂高虎が入っているらしい)
七将による三成襲撃事件
事件は七将が大阪城下の石田屋敷を襲撃したことから始まります。
事前に危険を察知した三成は佐竹氏の館に逃げ込みます。しばらくして伏見城下の自屋敷へ避難。七将らは伏見城まで追いかけますが、徳川家康がここで仲裁に入ります。
七将は身柄引き渡しを要求しますが家康はこれを拒否。代替案として三成は隠居させられることになります。
この事件をきっかけに徳川家康の影響力が強化されます。

ドラマや書籍などでは性格の悪い石田三成が謀略で武闘派の武将らを陥れたため復讐されるというストーリーが多いですね。
徳川家康がこの対立をうまく利用して天下を取ったのは間違いないと思うのですが『秀吉の配下としては、どっちもどっちだったのかな?』と私は思っています。
石田三成と関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いの詳細は割愛しますが、流れだけ簡単に。
徳川家康が上杉討伐のために北上する隙をついて石田三成は挙兵。その後、京の伏見城を落城させて美濃国(岐阜県)の大垣城に入城。
家康は小山評定ののちに西へ引き返し打倒・石田三成を掲げ進軍。
徳川軍は岐阜城を落とし大垣城を包囲します。石田軍を城からおびき出したかった徳川軍は『兵の一部を大垣城に配置して西へ進軍する』という流言策をとります。(諸説あり)
そして石田軍は徳川軍より先に大垣の西にある関ヶ原へ向かいます。
こうして関ヶ原の戦いが始まりました。
石田三成の最期と佐和山城
↑の写真は未完成の佐和山遊園。廃墟界隈では有名のようです。
関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わります。その後、家康は小早川秀秋に佐和山城を攻めるよう指示。およそ3000の兵で守る佐和山城。多勢に無勢で石田一族は戦死、あるいは自害しました。逃亡した石田三成も捕縛され、六条河原で処刑されました。
そして佐和山城には徳川の重臣・井伊直政が入城。直政は石田三成が居城にした佐和山に良いイメージを持てず彦根城を築城。その際に佐和山城は破却され石垣等の素材が彦根城の一部になりました。残念なことに直政は激務と関ヶ原の古傷により彦根城の完成を見ることなく亡くなってしまいました。
彦根城については別の記事がありますのでコチラをどうぞ↓
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