お綱門は福岡城・二の丸にあったとされる門である。
昔から曰くつきの門として知られ、門柱に触れただけで熱病に侵されたり、夜中にうなされたりすると云われてきた。
お綱門は残存していないが、怪談は語り継がれ、門があったとされるこの一帯は心霊スポットとして知られている。
お綱門の怪談…。
どのような歴史があったのか振り返ってみよう。
お綱門の怪談について
時代は寛永年間(1624年~1645年)。福岡藩主2代目・黒田忠之の治世。
黒田忠之は参勤交代の帰り道、大阪で知り合った美しい芸者・采女(うめね)を福岡まで連れ帰り屋敷に住まわせようとする。
それを家臣らに諫められた藩主は仕方なく側用人の浅野四郎左衛門に芸者を預ける事にした。
浅野四郎左衛門にはお綱という妻と2人の子どもがいた。
采女がやって来たことで家庭に不穏な空気が流れ始める。
四郎左衛門は次第に采女の魅力に惹かれていき家族を蔑ろにするようになっていった。
終いには采女を本宅に置き、お綱と子供を遠ざけ箱崎の下屋敷に追いやるにまで至った。
四郎左衛門は始めこそお綱と連絡を取り合っていたが次第に音信不通となり、仕送りは遂に途絶えお綱は苦しい生活を余儀なくされた。
『4歳になった娘のひな祭りくらいはどうにかしてあげたい。』と思ったお綱は下男に願いを言付け本宅へ向かわせる。
ところが、本宅にいた采女が下男の話を一切聞かず追い返してしまった。
下男はお綱に申し訳が立たず自害。
これを知ったお綱は遂に壊れてしまう。
まず2人の子どもを刺殺。そのまま薙刀を携え夫がいる屋敷へ襲撃。
しかし夫は仕事で城へ行っていたため不在であった。
代わりに屋敷には明石彦五郎という浪人がいた。
彼は突然入り込んできたお綱の形相を見て『これはヤバい…。』と咄嗟に切り捨てる。
深手を負うお綱。
『何としてでも憎き夫に一太刀あびせなければ…。』
乱れ髪、血だらけの身体を薙刀で支えながらフラフラと城へ向かう。
なんとか城門まで辿り着いたが…。
無念。門に手を掛けたまま帰らぬ人となってしまった。
お綱が力尽きた場所がお綱門と呼ばれた訳ね。
お綱の墓
福岡市東区馬出にある枯野塚。
元禄12年(1699年)、郷土の俳人哺川は、博多に滞在していた松尾芭蕉の高弟向井去来から芭蕉の辞世の句を贈られました。
哺川はこの好意に深く感激し、同じ芭蕉の高弟志太野坡に『芭蕉翁の墓』の碑銘の書を依頼し、元禄13年(1700年)に枯野塚を建立しました。
芭蕉追慕の墓碑(句碑)としては、全国的にみて最も古い部類に属し、俳譜史上の価値が高いことなどから、県の史跡に指定されています。
枯野塚 説明板より
枯野塚は上記の通り松尾芭蕉に関する史跡だが、お綱の墓だとも伝わる。
写真右奥の大きな石碑に『圓通院義操妙綱大姉』、その裏には『寛永七年三月三日 俗名麻井おつな』と刻まれている。寛永七年は1630年、黒田忠之が福岡藩をおさめていた時期と重なる。
左隣にある2つの小さな石碑はお綱が殺めてしまった子供のお墓ではないかと云われている。
確認は出来なかったが、裏面に同じ年月が彫られているそうだ。
本宅を追い出されたお綱と2人の子どもの住まいは馬出の下屋敷だったらしい。
実際にあった事件なのか知る由も無い。
終わりに
お綱門は浅野四郎左衛門の本宅跡に建てられた長宮院に移築されたが、福岡大空襲によって焼失してしまった。
門は燃えて無くなってしまったけれども、お綱の御位牌は運よく被災に遭わず後に眞光院という寺院に移された。
眞光院は福岡県糸島市に移築され、お綱の御位牌はお綱大明神として信仰を集めている。
愛憎の怨霊として人々を戦慄させたお綱は場所を変え『縁結びや家族円満』の御利益をもたらす神様に昇華したようだ。
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