現存12天守をご存知だろうか?
天守は日本の城の象徴的建築物である。
江戸時代、若しくはそれ以前に造られ、現在まで残り続けている12城の天守を現存12天守と呼ぶ。
内7城は重要文化財に、残りの5城は国宝に指定されている。
国宝5城は以下の通り↓
さて、今回のお題は松江城。
この城には『踊り子の人柱伝説』があるという。
城の歴史を振り返ろう。
松江城へのアクセス
松江だんだん道路の西尾ICを降り、県道260号線を松江城方面へ直進すれば到着する。
松江城ホームページによると駐車場は、松江城大手前駐車場か城山西駐車場がおすすめとのこと。
私は松江城大手前駐車場が混んでいたため近くにあったタイムズ畑殿町駐車場を利用した。
電車はJR山陰本線の松江駅から『ぐるっと松江レイクラインバス』で国宝松江城(大手前)を下車。
そこから歩いて10分程度で着くはずだ。
松江城の歴史
1611年、松江城は堀尾氏によって築城された。
それ以前は尼子氏や毛利氏の支配下にあり、ここには末次城と呼ばれる城が建っていた。
末次城は鎌倉時代に佐々木(末次)胤清が築城したと伝わる。
城の詳細は不詳であるが、戦国時代中期に毛利氏の侵攻を受けて落城した記録が残る。
築城者の堀尾忠氏は1600年の関ヶ原の戦いで活躍し、出雲松江24万石を与えられ月山富田城に入城している。
かつては難攻不落の天空城と呼ばれていた月山富田城だったが、合戦に備えて築かれた山城は時代に合わず、新たに松江城が築城された。
堀尾忠氏と言えば『小山会議/評定』での出来事が有名である。
徳川家康が打倒・上杉景勝のため栃木県小山まで軍隊を進めたとき、石田三成が家康に対して挙兵したという報が入る。
この挙兵に対し行われた軍議が『小山会議/評定』。
家康が『さて、どうしたものか?』と皆に問う。
すると山内一豊が『私の城を提供する!』と言い放つ。
一豊の心強い言葉に場の武将らが一致団結して家康に協力した話だが、会議の前に堀尾忠氏が山内一豊に『私は家康殿に城を渡して味方しようと思っている。』と伝えていたという逸話が残っている。
要は『一豊が忠氏の決意をパクって手柄にした。』ということだ。
小山会議についての一次資料は存在しないので、この逸話は創作に違いないが、どのような意図があったのかは不明である。
堀尾忠氏は若くして亡くなり長子の忠晴が跡を継ぐ。
しかし忠晴は嗣子に恵まれず1633年に断絶。改易処分になっている。
その後に入城した京極忠高も嗣子がなく1637年に一時断絶。
そして信濃国松本藩から松平直政から入封し、明治維新まで松江を統治した。
明治時代に入ると『全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)』が発布され天守を除く建造物は払い下げられ撤去されてしまう。
天守も売りに出されたが、保存を望む地元の元藩士や豪農によって買い取られ撤去を免れた。(素晴らしいことだと思う)
以上が松江城の歴史。
松江城の人柱伝説について
小泉八雲の『Glimpses of Unfamiliar Japan(日本の面影)』に下記のようなことが書かれている。
罪のない娘を人柱に立てるなんて…。
本当にあったのかな?
小泉八雲は『松江城の踊り子人柱』の他、『源助柱』や『嫁ヶ島』などの興味深い話を『Glimpses of Unfamiliar Japan(日本の面影)』に残している。
またwikipediaでは以下のように書かれている。
天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである。
終わりに
人柱が事実かどうかは公的な史料が残っていないので本当のところはわからない。
このような伝説は日本各地に残っているが、実際に遺体が見つかったケースは少ない。
まぁ、絶対なかったとは言い切れないけどね…。
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